2023年12月10日 待降節第2主日礼拝説教要旨
「正しい人ヨセフ、恐れなくてよい」 石川立牧師
マタイによる福音書 1:18-25節
今年10月、中東で再び戦争が始まりました。一般に戦争では各陣営は自らの<正義>によって戦いを正当化します。人間の<正義>は人を救うどころか、戦いを激化させ、シャローム(平安)を壊すものにもなります。旧約聖書では、神は<義>の神であり、<正しい>のは神のみです。<正しい>人はひとりもいません。聖書に<正しい人>という表現はありますが、それは日常的な言葉であり、せいぜい、律法をそつなく守り、周囲の評判も上々の人のことを指すにすぎません。
アドベントにふさわしい聖書箇所の一つ、マタイ福音書1章18-25節によれば、ヨセフは<正しい人>だったので、ヨセフによることなく身ごもったマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した、とあります。このような場合、ヨセフが<正しい人>であるならば、本来、律法に従って、マリアを石打ちの刑によって罰しなければなりません。ところが彼はマリアを罰せず、事態を隠そうとしました。これは律法に背くことなので、彼は逆に自分が罰せられるのではないかと恐れました。ヨセフが眠りにつくと、夢の中に主の天使が現れ言いました。「ヨセフ、恐れなくてよい。マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。この言葉によってヨセフは自らの<正しさ>から解かれ、癒されることになります。ヨセフは眠りからさめると、とくに無理することもなく主の天使の言葉どおりマリアを妻として迎え入れることができました。
主の天使の言葉のあとに示されるインマヌエルの名は「神は私たちと共におられる」という意味です。イエスという名は救いを表しますが、インマヌエルの名によって、イエスが、先頭に立って人々を導く英雄というよりも、私たち一人ひとりにいつも寄り添ってくださる救い主であることが示されました。イエスは救い・愛そのものです。旧約の時代、<義>の神は裁く神、罰する神として恐れられてきました。ところが、私たちと共にいてくださる御子のご降誕により、人間の<正しさ>はむなしいものとされ、神様の<義>が実は、裁きではなく救いであり、罰ではなく愛であるということが明らかになったのです。
私たちは人間の<正義>を主張するのではなく、ヨセフのように、この世に誕生してくださった<義>なる神の御子を、あわれみの救い主として、神の愛として、シャローム(平安)の主としてお迎えしたいものです。
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