2024年6月4日火曜日

2024年5月26日

 2024年5月26日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「名を呼ぶ神」 山﨑道子牧師

  ルカによる福音書 20:27-40節

 キリスト教の教えの中で、一番大事で一番分かりにくいのが復活です。なんせ死んだ人間が生き返るなんて非現実的なことをそう簡単に信じられるはずもありません。イエスの時代にも、復活を否定していたサドカイ派というグループがありました。そのサドカイ派の人々が、聖書のある掟を逆手に取り、復活についてイエスに意地悪な質問をしてきました。 「7人兄弟の長男が妻を迎えたが跡継ぎを残さないで死んだので、次男が掟に従ってその女性を妻にしたが、その次男も亡くなった。そうやって7人兄弟が次々この女性を妻としたが、皆跡継ぎがないまま死に、最後はこの女性も死んでしまった。この場合、全員が復活したときにこの女性は誰の妻になるのか。」

 私にはこの箇所を読む度に思い出すおじさんがいます。彼はある日突然教会に来て、「若い頃から血の気が多く、アルコール中毒となった挙句に親兄弟から縁を切られ、一時はホームレスだった。今はお酒をきっぱりやめたが、最近病気が見つかった。礼拝に出るのは恐れ多いが、自分のような人間は死んだらどうなるのか気になってここに来た」と言い、当時牧師になりたてだった私を大変困惑させました。

 その後、2か月に一度程のペースで彼と平日に話をしました。話題の半分くらいはタイガースでしたが、この不思議な面談が1年半程続いた後、彼は禁酒サポートで世話になっていた聖公会の教会で受洗することになったのです。その年のクリスマスの朝、駅前の喫茶店で一緒にモーニングを食べていた際、自分など救われるはずがないと頑なだったそのおじさんが、「洗礼を受けると決めた瞬間から、心がとても楽になり安心できるようになった」と何とも晴れ晴れしい笑顔で言ったのです。

 復活の命とは、死んだ後に頂くものではありません。私たちは神に名を呼ばれ、神と出会うことによって、すでにもう復活の命を生き始めているのです。神は今も生きて私たちと共におられ、たとえ私が死んでも神は私の名を記憶し続け、永遠に存在し続けてくださるのです。その意味で、わたしたちは限りあるいのちを持つ生き物であるにも関わらず、神と共に永遠に生きる命を与えられているのです。それは、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなたの父母の神であり、あなた自身の神であると自己紹介してくださっているようなものです。恐れ多いことではありますが、そう呼ばれるに少しでも値する人間でありたいと思います。


0 件のコメント:

コメントを投稿