2024年6月9日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨
「いのちに仕える」 仲程愛美牧師
マタイによる福音書 6:25-34節
昨年、スペイン語に由来する「ケセラセラ」がタイトルになった曲が流行しました。歌詞を見ると単純な応援ソングとは言い切れず、息詰まりそうな人生でも「なるようになる」からと、もがきながら歩んでいく姿が感じられます。
人間にはそれぞれ、悩みや心配事は尽きません。どうにもこうにもならないことは、運や天に任せて手放すしかない。先人たちは、思い煩いを抱える人間の有り様をこのように考えるに至ったのです。
イエスさまの時代も同じようなことが起こっていたようです。何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようか…そのような人々に向けてイエスさまはこう語りかけます。
「空の鳥、野の花々に目を向けてごらん。鳥も花もあくせくせず、ただその日その日を生きている。しかしそうした鳥も花々もちゃんと神に養ってもらっているではないか。あなたたちは鳥や花以上に、神が思いを込めて創造された人ではないのかい?なぜ鳥や花も悩んでいないようなことで心配し、自分が生きるために何をしようかと悩むんだ?生きるために必要なことはすべて神が知っておられる。だから人が思い悩むことはない。悩みや心配事を神に任せなさい。」
人が悩むのは生きている証拠とも言えます。知識や経験があるからこそ、分析し物事を予測して不安になるのです。人間だからこそ悩む。その私たちに「思い悩むな」というのですから、イエスさまの発言は楽観的すぎる?あるいは無責任?と感じるかもしれません。けれどもこうした悩み尽きぬ私たちに、イエスさまは神という存在がいることを語り、人生を委ねてみてはどうかと言うのです。そして「委ねる」の先にある私たちにできることを提示しています。
「まず神の国と義を求めよ」と。これらを言い換えるならば、それらは命を思うこと、命に仕えることだと思います。神の国が実現する時、神の義が守られる時は、その存在が何よりも大切だとされる時間、空間だからです。
命を取り巻く事柄を心配するなと語ったイエスが示す先にあったのは、いのちに仕えること。いのちに向き合うことでした。結局、同じことを言っているようにも思えますが、明日のことを思い悩む姿は、つまり自分のことで余裕がなくなり身動きが取れなくなっている状態を表しています。そうした状態から解放され、神に委ねる歩みへとイエスさまは招いています。自分だけでなくすべての「いのち・存在」に仕える、豊かな生き方へと導かれていきましょう。
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