2025年1月31日金曜日

2025年1月26日

 2025年1月26日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

「怒りについて」 大谷隆夫牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 私が、関西労働者伝道委員会の専任者として働き始める直前の半年間ほど、アメリカのホームレスの人たちの実態を知るために、アメリカに滞在したことがあります。そのアメリカ滞在中の出来事ですが、ある時、ルカ福音書10章25~37節に書かれている、サマリヤ人にならって、テレビを観ているみなさんも、ホームレスの人々に出来るだけ支援していくためにカンパをしてください!という内容のテレビのコマーシャルが流されたのです。

 実は、私はその時、アルバイトをしていたのですが、そのアルバイトの賃金は非常に低賃金だったのですが、ちょうどこのテレビのコマーシャルが流された時に、私の雇い主もこのテレビのコマーシャルを一緒に観ていて、「TAKOさん!私はホームレスの人たちにもカンパをし続けているんです!」ということを言ったわけです。

 その時に私が思ったことですが、ホームレスの人たちにカンパをするのも良いが、もっと自分の賃金を上げて欲しいと思いましたし、このルカ福音書10章25~37節に書かれている、「善いサマリヤ人のたとえ話」は、単純に隣人愛の話だと考えてはいけないのではないかということでした。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていたある人に出会った時に、サマリヤ人がどう感じたのかということです。私はそこにサマリヤ人の「怒り」というものを感じるわけであります。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていた、そういった不条理な状態にある人が置かれていることに対する、社会悪に対するサマリヤ人の「怒り」であります。このサマリヤ人の「怒り」はイエスの「怒り」でもあるわけですが、このイエスの「怒り」の総決算と言うべきものが、今日、選んだ聖書の箇所に書かれている、イエスが神殿から商人を追い出した行為であると言えます。

 良く考えて見れば、私の30年以上に渡る釜ヶ崎の歩みを支えて来た原動力は、釜ヶ崎日雇労働者、野宿を余儀なくされている労働者が置かれている、不正義、不当な、社会悪に対する怒りであり、憤りであったと思います。

 今日の聖書の箇所に書かれている、イエスのように、いわゆる「社会悪」に対して、本当に怒るべき時は、たった一人でも、支持してくれる人が誰もいないような状況であっても、怒り続けて行きたいと改めて思わされている次第です。

 

2025年1月25日土曜日

2025年1月19日

 2025年1月19日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「イエスさまに治していただく」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 4:18-25節

 俳優の北川景子は小学生のときに、神戸で阪神大震災を経験しています。自宅や家族は無事でした。それでも「なぜ自分がこんな目に逢うのか、亡くなった人はどうして亡くならないといけなかったのか」。とても気持ちが落ち込みます。

 北川景子は数年後、大阪にあるキリスト教系の中学校である、大阪女学院に入学をします。【転機は中学時代。キリスト教系の大阪女学院に入学すると、震災以来の不安感や絶望感が次第に薄れていく。きっかけは言葉の力だった。今でも忘れられないのが、入学式後に教師から教えてもらった「置かれた場所で咲きなさい」という語句だ。ずっと「なぜ自分が」と狭い世界の中で思考を巡らせていたが、それぞれの環境で頑張ればいいと「腑(ふ)に落ちたというか、救い、気づき、導きになった」。他にも「神は乗り越えられる試練しか与えない」「人にしてもらいたいことをしてあげなさい」など、たくさんの言葉が思春期の心を支える】(日本経済新聞の2025年1月5日)。

 「四人の漁師を弟子にする」という物語のなかで語られる、「すぐに網を捨てて従った」「すぐに、舟と父を残してイエスに従った」というときの、「捨てて」とか「残して」というのは、がんじがらめになっていたものから解き放たれていくというようなイメージなのだと思います。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、なんとなく自分でどうしたら良いのかわからず過ごしていたのだと思います。そんなとき、彼らはイエスさまに出会い、イエスさまから「わたしについてきなさい」と声をかけられます。彼らはかんじがらめになって、自分でもどうしたらよいかわからなかったけれども、イエスさまから声をかけられ、「この人についていこう」と思い、新しい歩みを始めます。

 このわたしのこころのなかにあるどうしようもない邪な思いを治していただきたい。自分でもこの気持ちをどうにかしなければならないと思うのだけれども、どうしても断ち切ることができない。人の思いは複雑ですから、自分の思いでありながら、自分でどうすることもできないというようなこともあります。私たちは自分ではどうすることもできないけれども、でもイエス・キリストは私たちを癒やしてくださり、私たちに新しい命を与えてくださいます。そして私たちに新しい力を与えてくださり、前を向いて歩んでいく力を与えてくださいます。

 イエスさまが、私たちを招いてくださっています。イエスさまの招きに応えて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。



2025年1月18日土曜日

2025年1月12日

2025年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「おぼろに見ている」 小笠原純牧師

  1コリント 13:1-13節

 パウロさんは大切なことが三つあると言いました。「信仰と希望と愛がとても大切」。それでこの三つの中でもっとも大切なのは、何なのか。パウロさんは「信仰の人」だったから、「もっとも大切なのは信仰だ」と言ってもおかしくないような気がするのですが、でもこう言いました。「その中で最も大いなるものは、愛である」。「愛は神さまがくださるものだから、やっぱり一番大切だ」と、パウロさんは思っていました。

 パウロさんは「人間ははっきりとものをみていない」と思っていました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と言っています。「自分のことは自分がよく知っている」というのであれば、自分の顔がどんな顔かはっきりと見ていてもいいような気がしますが、私たちは自分の顔を直接見ることはできません。私たちは自分の顔も「鏡に映ったものを見ています」。

 私たちは意外に自分のことを知りません。周りの人のほうがはるかにわたしのことを知っているということがあります。みなさんのお母さんは、みなさんがどんなにかわいらしく笑うかを知っています。みなさんのお父さんは、みなさんがどんなに気持ち良さそうに眠っているのかを知っています。みなさんの友だちは、みなさんがどんなにやさしい顔を友だちにむけてくれるのかを知っています。みなさんの恋人は、みなさんがどんなにすてきな瞳で自分をみつめてくれるかを知っています。

 「私たち人間が見ているものは、鏡におぼろに映ったものにすぎない」のです。だから私たちはお互いに謙虚にならなければなりません。私たちが真理を振りかざして人を問いつめようとしたり、人を裁こうとするとき、自分が絶対に正しいと思い込んでいるとき、私たちは自分たちが見ているものが「鏡におぼろに映ったものにすぎない」ということを思い起こさなければなりません。

 大切なことは神さまが私たちを愛してくださっているということです。自分がりっぱであるとか、自分がりっぱでないとか、そういうことが大切なのではない。神さまがわたしのことを愛してくださっているということが大切なのだと、パウロさんは言いました。

 私たちは大きな神さまの愛のなかに生かされています。神さまが私たちを守ってくださっています。私たちのことを愛してくださる神さまにより頼んで、神さまの愛に感謝して歩んでいきましょう。

 

2025年1月11日土曜日

2025年1月5日

 2025年1月5日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「神さまの導きに従って」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 2:13ー23節

 2025年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。「善を求めよ。悪を求めるな。 お前たちが生きることができるために(旧約聖書 アモス書5章14節)」「私たちの世の中が、奪い合いではなく、わかちあいの世の中であることを信じて歩みます」。不正や不信仰が満ちている社会のなかで、預言者アモスは「みんな神さまの御心に反して生きている。それはよくない」と言いました。神さまの御心にしたがって、善を求め、悪を遠ざけ、私たちの社会が良き社会になるようにしていこうと、人々に呼びかけました。

 イエスさまはお生まれになられたあと、ヘロデ王から命をねらわれ、そしてエジプトに難民となって逃げることになりました。そのときヘロデ王による幼児虐殺が行われ、人々は王の圧政に苦しみます。しかし聖書は同時に、そうした大変な出来事の中で、神さまの導きがあり、イエスさまたちが守られたということが記しています。

 また悲しい出来事も「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」と、マタイによる福音書は記しています。これは悲しい出来事を神さまが行われたのだということを言っているのではありません。悲しい出来事が起こったけれども、しかし神さまはそのことを知っていてくださるのだということです。神さまが知っていてくださり、そしてそののち、神さまの御心が行われていくのだということが記されているのです。

 イエスさまの誕生の物語の後半は、イエスさまが大変な出来事に出会うという物語です。しかしそうしたなかにあっても、【主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった】と記され、預言者たちをとおして示されている神さまの御心が行われていくことが記されてあります。

 私たちは生活のなかで、いろいろな出来事に出会います。うれしいこともありますが、悲しいこともあります。とても受け入れがたい出来事だと思えるような出来事をも、私たちは拳々します。しかしそうしたなかにあっても、私たちは神さまの導きがあると信じて歩んでいます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを導いてくださいます。

 新しい年も、神さまの愛のうちを、お迎えしたイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。

 

2025年1月4日土曜日

2024年12月29日

 2024年12月29日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「新しい生き方としてのクリスマス」 山下毅牧師

  マタイによる福音書 2:1-12/ヨハネ黙示録22:16節

 朝祷会のメンバーの中に、京都大学医学部教授の高橋裕子先生がおいでになります。先生の手記によりますと、復活されたイエス・キリストに会われたのです。「私は、2014年2月3日、——あなたに、命を与え、60年間育ててきたのは私である。私はあなたを医者にして、今の立場を与えた。私はあなたを私の計画に用いる。だから、私に従いなさい」という声を、体の中に爆発したように言葉が入ってきたのです。——今までクリスチャンでなかった高橋先生は、それから本当に熱心なキリスト者になり、現在活躍しておられます。

 私は毎週高橋先生にお会いし、祈りを共にさせていただいている中で、復活されたイエス・キリストは私どもと共に生きておられると、本当に確信するようになりました。

 クリスマスには二つの意味があります。一つはイエス・キリストが馬小屋で生まれ、学者達が東方から来た、神さまの愛の「しるし」として、見えない愛が、見える形として現れました。

 もう一つはヨハネの黙示録の中でイエス自ら「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と証しされ、復活された、イエス・キリストが私たちと共に生きていると言われます。

 第一の視点では、ユダヤ人にとっては、敵国であり、占い師の学者達、星の導きを頼りに、本当の人生を求めて、イエス・キリストに出会う姿は、私たちが信仰を求め、荒野をさ迷う姿に似ています。イエス・キリストに出会い、喜びにあふれ、違う人間に変えられた私たちの姿を映しています。

 第二視点では、ヨハネの黙示録の中で「わたしイエス」はというふうに、イエスご自身が今も生きていたもう、そしてなまの自己紹介を、わたしたち一人一人に語りかけておられるのです。「わたしイエスは、輝く明けの明星」と述べられるのです。 そこには暗い夜が明けて朝がくるのです。

 私たちの生き方は、「この世で勝利する生き方」自己中心、自己愛ではなく、「この世に勝利する生き方」に招かれています。神中心から始まり、地の塩、世の光、存在そのものに価値を見出し、成長への希望、完成への喜びを見いだす生き方です。キリストの復活は、私たちの生き方そのものを根本から変えてくださり、たえず祈りへと導いてくださいます。