2016年6月27日月曜日

2016年6月12日

2016年6月12日 子どもの日合同礼拝 説教要旨
  「神さまは愛」宇野稔牧師
  (Ⅰヨハネの手紙4章16〜21節)

 16節に「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です」という言葉があります。これこそキリスト者の証しです。私たちは、神に守られていることを当たり前のことのように思ってしまっていないでしょうか。神の愛を心に留めて生きているでしょうか。どんな時にも自分は神に愛されていると信じることが出来ていますか。
  現実の私たちは、うまく行かなくなると不安になり、人生思い通りでないことに激しく動揺してしまいます。そして自分の無力を嘆いたり、他人の冷たさを恨んだり、社会の矛盾を数えて悲嘆にくれたりしてしまうのです。
 その時、聖書は段落を変えて宣言します。「神は愛です」。私たちが生きて行くに当って、拠って立つべき事実がここにあるのです。時代や自分を巡る環境がどのようなものであれ、「神は愛です」という事柄は揺るがない事実だという宣言なのです。様々な状況に心折れることなく「神に愛されているという確信にとどまる」ことが奨められているのです。
  18節で「愛には恐れがない」と語られています。私たちが神の愛を生きるならば、この世界のいかなるもの、いかなる人も恐れることはないというのです。その愛は神によって19節に示されている通りなのです。神の愛を生きる者は、イエスがモデルです。「他者を愛そう」とするのです。私たちは「神を愛している」とは云うけれど、兄弟が困っていても手も出さない人がいたとしたら、その人は本当の神の愛と出会っていないのです。愛される体験のない者が愛することが出来るはずはありません。さらに、目に見える兄弟を愛さない人が、目に見えない神を愛することな出来ません。
  互いに愛し合うこと、それが神が旧約の初めから語って来られたことであり、イエス・キリストが生命を縣けて残された新しい掟なのです。  小さな子どもたちが成長して行くのも神の愛のしるしです。私たちはその神の愛の中に置かれています。子どもと共に神の愛に感謝し、その愛の中を生きる者として、互いに愛をもって歩みましょう。

2016年6月21日火曜日

2016年6月5日

2016年6月5日 主日礼拝 説教要旨
  「一つ足りないものがある」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章17〜22節)

 富める青年に向かってイエスが「一つ欠けている」と云われたことを考えましょう。単純に考えれば「イエスに従うこと」でしょう。しかし、イエスは従うことや、全財産を貧しい人に施すということではないと考えておられます。イエスが求めておられる一つのものとは、この人がもったら永遠の生命に至り、神の国へと至るその根源が「一つ足りない」ものです。それを解く鍵が21節にあります。
 イエスはこの人に目を留め、慈しまれたとあります。この言葉は「アガパオー」ですが、これはアガペーの動詞です。イエスはこの人を見て深い愛を覚えられたのです。愛のまなざしの中で語られたのです。ですから、この言葉は相手に不足を見出すための言葉でありません。むしろ、イエスが人を見つめ「私に従って来なさい」という時には、その人を招いておられるのです。「あなたに足りないものは一つだけだ」。イエスはこう語りながら、この人を招いておられるのです。
 考えてみたら、この人も欠けの多い人間だったのです。足りない面を多く持っていたでしょう。しかし、彼は一生懸命に歩んできたのです。イエスはそのような人間を愛されたのです。足りないことが多くても、貧しい器であっても必死になって神の業を行おうとする人間を神は愛するのです。そのような人間を救いへと招かれるのです。
 実に彼に欠けている「一つのもの」、それは神への信頼です。人間の破れを社会の破れを自ら貧しくなって十字架についてまで懸命に支えようとしている神への信頼です。彼の今日までの歩みの中に、そのような神の愛があったという信仰が彼に欠けていた一つではないでしょうか。逆に云えば、私たちに求められているものは、才覚や能力や資質ではなくこの一つの信仰だけだということではないでしょうか。

 今年の平安教会では、宣教方針(総会にて承認された事項)の③で「地域に、家庭(家族)に伝道する教会」を掲げ、私たちの足りない点を補うことに集中するよう実際に伝道文書をもって励むのです。

2016年6月15日水曜日

2016年5月29日

2016年5月29日 主日礼拝 説教要旨
  「神の国を受け入れる信仰」宇野稔牧師
  マルコによる福音書10章13〜16節)

 イエスのもとに子どもを連れた母親がやって来ます。イエスの弟子たちはその親子を見て追い返そうとします。イエスが休むことの妨害になると思ったのです。それも子どもでなく母親を叱っています。子どものことで叱られることは親にとっては辛いことでした。
 ところがその様子を見ていたイエスは、その弟子を叱ったのです。しかも憤ったとかかれていますから激しい感情を表したのです。つまり、他では見たことがないくらい激しく弟子たちを叱りつけたのです。子どもがイエスのところに来る、そしてイエスの祝福を受ける。それは決して妨げてはならない行為なのです。
 イエスは「神の国はこのような者たちのものである。はっきり云っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない」。そして子どもたちを抱き上げて祝福されたのです。イエスは子どもの何をそんなに評価されたのでしょうか。それは「神の国を受け入れる」と云う言葉です。神の国とは神の支配と言い換えることができます。子どものように神の支配を信じる者こそ、神の国にふさわしい者たど言われるのです。
 子どもは素晴らしい能力の持ち主です。例えば「仲直り」です。本気で大げんかしてもその直後に仲直りして、すぐに一緒に遊ぶという能力です。根底にあるものは他者に対する信頼です。子どもは言葉でうまく表現出来なくても、神が自分たちを愛しているという事を感じていますし、信じているのです。
 信仰の先達は、私たちに神の国を受け入れることの大切なことを告げています。それは自分を委ねて行くことです。無力なるが故に、出来ることがあるのです。そして無力な私が神と出会うのです。神の国を受け入れていく信仰、それを継承していきたいと願うのです。ここでイエスが特に強調されておられる点は、幼子のように素直になれということよりも、乳飲み子という言葉からも飲み込む、受け入れるという特色があると云われ、その点をイエスがここで引き合いに出された意味なのです。

2016年6月7日火曜日

2016年5月22日

2016年5月22日 聖霊降臨日礼拝 説教要旨
  「やめさせてはならない」宇野稔牧師
  マルコによる福音書9章38〜41節)

 弟子たちは自分たちの知らない人が、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを見て「私たちの仲間でないのだからやめろ」と云いますが、失敗したのでイエスに訴えるのです。ところがイエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方である」と云います。これを単純に考えると心の狭い弟子に対して、イエスは心の広い方なのだという物語のように読めます。
 ところがマタイ福音書12章30節には「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し...散らしている」。マタイでは味方以外は敵だと云っているのです。マタイの成立の成立的背景にユダヤ教からの迫害という現実があって、12章のところもファリサイ派との論争の中でイエスが云った言葉なのです。そこで問われているのは、イエスと共に歩むかファリサイ派に従うかという決断があり、迫害の中でもイエスと共に歩みなさいとの決断を促す言葉なのです。
 それに対して今日のマルコの文脈は、イエスに従う決意をした弟子たちに対して語られています。彼らがイエスに従うという決断はすでになされているわけで、その弟子に対して私たちに敵対しないなら味方ではないかと語っているのです。
 だからイエスが私たちという主語を使っていることに注目しましょう。即ち、自分の仲間として表現されています。そしてその行為を「やめさせてはならない」と語られるのです。男がイエスの名を使っているということは、イエスの運動に共感したり共鳴していることの証しでしょう。必ずしも正しい弟子でないかもしれないが、「敵でないなら味方ではないか」です。41節に「はっきり云っておく...水一杯をさし出したこと、その事を忘れない」というのです。イエスは十字架に向かっています。イエスはいのちを捨てる旅をしているにもかかわらず、水一杯を差し出したこと、このことを覚えそのことをもって報いて下さるというのです。
 キリスト者として適格者と云える者ではないにちがいありません。しかし器不足の者が差し出した水一杯をイエスは「忘れない」と語られるのです。