2016年10月9日 主日礼拝説教要旨
「何も恐れることはない」宇野稔牧師
(マルコによる福音書12章1〜12節)
イエスキリストの説教の特徴は喩え話しでした。今日の箇所はマルコ福音書の中での最後の話しです。この喩え話しには特別な意味が含まれているとマルコは云います。
一人の人が出て来ます。この人は相当な設備の整ったぶどう園を作り、それを農夫に貸し与えて旅に出ます。農夫たちとは約束があり、収穫を終えたら小作料として一定の金額を支払うというものです。これに対して、イエスの喩え話しは逆なのです。主人が遠くにいることを良いことに、農夫たちは小作料を払おうとしなかったのです。この主人は僕を送り、自分の責任を果たすように説得させたのですが、農夫たちは耳を傾けず、逆に彼を袋たたきにして殴り殺したのです。
ついに主人は「自分の息子を送ろう。この子なら敬ってくれるだろう」と決意するのですが、その息子も殺されてしまうのです。素晴らしい主人に対してあまりにひどい農夫たち、裁かれて当然とイエスは語ります。
祭司長たちはこの時に自分たちへの皮肉だと気づきます。主人は神のことで、農夫は自分たちであることを気づき、神の信頼を裏切ったのだと指摘されるのです。人間は裏切りに弱いのです。裏切られる前に裏切って生きる人間になろうと考えます。私達は自分を守るためなら信頼を裏切ることも辞さないのです。
彼らはイエスの本当に云いたいことに気づいていません。この喩え話しには続きがあって、実のところは10節と11節で、家造りが捨てた石を角の親石とするというのです。不必要として裏切られ、捨てられたものを神が最も大切なものとする。それは神の不思議である、というのがイエスの云いたいことなのです。つまり、「あなた方は人を見て恐れているが、本当に恐れるべきものは神なのです。あなたが神の御心に沿って生きていたら、何も恐れることはない。もし人に捨てられても、裏切られても、神があなたを活かして下さるからだ」と云いたかったのです。
私達がこの約束を信じて生きるならば、裏切られることを恐れずに隣人愛に生きられるのです。私達の光をキリストが歩いて下さっています。
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