2016年9月25日 主日礼拝説教要旨
「ここは祈りの家である」宇野稔牧師
(マルコによる福音書11章15〜19節)
エルサレム神殿には過越の祭りのために世界中からユダヤ人が集まって来ました。捧げものをする準備の場として「異邦人の庭」という前庭があります。そこにイエス・キリストが入って行き、商売人や両替人を追い出し、また境内を近道にしようとしていた人の邪魔をしたというのです。
イエス・キリストは捧げものや礼拝を否定される方ではありません。そこにいた全ての商売人たちを追い出したというイメージですが、そんなことは不可能なことです。
ということはイエスの行動は「象徴行為」だったということになります。それは17節のイエスの言葉によりはっきりします。イエスは現在の神殿が「強盗の巣」であるといいます。このことはエレミヤ書7章に基づいていると考えられています。エレミヤは不正がまかり通って弱い者がさらに弱くされ、貧しい者がさらに奪われているということに対して怒っているのです。
日常生活の中で弱い人々から強盗するように富を奪い取っている者が神殿を巣窟にしているという非難なのです。本来、神殿は貧しい人々がそこで力を得るためのはずなのに、神殿が社会の中で貧しい人たちをより苦しくするという機能の一端を担っていて、そこで大祭司も祭司もその一族もその役割の中でのうのうと生活している、、、、そうした神殿の現状を「強盗の巣」であると非難されるのです。
イエスのしたことは、エルサレム神殿には救いがないということであり、本当の救いのためにはもうエルサレム神殿は必要なくなったということを示す行為だったのです。では救いのために何か必要なのでしょうか。イエスは「私の家は全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」といいます。救いのために必要なもの、それが「祈り」です。それが教会の核なのです。
祈りというのは、この世界の現実の中に神が働いておられることを確認する術なのです。そして全ての人にその「祈りの場」を提供することこそ、教会にイエス・キリストが望んでおられるからなのです。
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