「キリストの言葉を聞く」宇野稔牧師
(ローマの信徒への手紙10章14〜17節)
「百聞は一見にしかず」という諺がありますが、人間は資格で確かめようとする傾向が強いのです。私たちも神を見ることを求めてしまうこともあります。要するに視覚で神を確かめたいのです。しかし、「神を見たものはいない」のです。では、神がいるかどうか確かめるのにはどうしたらいいのでしょうか。
パウロはこう云っています。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです」と。私たちはキリストの言葉を聞くことから信じることが始まるのです。私たちはキリストの言葉を聞くことが可能だからこそ云えるのです。
さらにパウロは、「神の言葉は世界の果てにまで及ぶ」と云いました。パウロは使徒として歩み出す前にキリスト者を迫害し、男女の別なく見つけては投獄していたのです。しかし、ダマスコ途上でイエス・キリストとの出会いを経験するのです。この出来事はパウロにとって衝撃的な出来事であったに違いありません。彼はこの経験を通して罪の力の大きさを知り、同時に自分の小ささや惨めさを知る機会であったのです。衝撃を受けて逃げるように「アラビア」という地域に行きました。それは「地の果て」という思いがありました。ところが、その地の果てのような所でパウロは驚くべき神の声を聞くのです。「わたしがあなたを異邦人への使徒として選んだ」。地の果てにまで神の声は響いている。孤独の果にまでも。
こんな惨めな自分を神は使徒として仕わそうとして下さる。イエスは失敗を許し、失敗を含めての事であること。その時、パウロはイエス・キリストの言葉、「あなたは私の愛する子、わたしの愛する友だ。だから大丈夫、生まれ変わってわたしの使徒として生きなさい」。信仰は聞くことにより始まります。地の果に、心の果に響いているのです。
今日は恵老の日の礼拝、80才以上の方々44名を覚えます。その歩みにおいては如何なる時も「神の言葉を聞く」生活を続けられました。と同時に聞いたことを隣の人に語ることも含めて歩んでおられます。信仰の先輩方に倣いましょう。
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