2019年9月8日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
「自分のこととして考えてみようよ」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 14:1~6節
わたしは昔、「病院ってお見舞いに行くところ」と思っていました。伝道師、2年目、わたしは甲状腺機能亢進症という病気で入院することになりました。わたしは自分が入院して、はじめて、病院って、だれしも病気になり、自分もまた入院するところであることに気づきました。なんかとても高慢な思いになっていたことに気づかされました。
安息日に人や牛が井戸に落ちたときどうすればよいのかということについては、ユダヤの法律のなかで、いくつもの凡例があるそうです。イエスさまは「自分の息子か牛が井戸に落ちたら」と言っておられます。たんに人が井戸に落ちたときとか、牛が井戸に落ちたときの話をしているのではないということです。「あなた」の息子、「あなた」の牛が落ちたら、あなたはどうするのだ。安息日だからといって助けないのか。一般的な話のときは、自分の説を披露して、わたしの解釈はこうだというだろうけれど、「自分」の息子や牛が落ちたときは、やっぱり安息日であっても助けるだろうと、イエスさまは言われました。
イエスさまは「自分の身になって考えようよ」と言われました。イエスさまは律法というのは、「人にしてもらいたいと思うことを、あなたが人にしてあげることだ」(マタイ福音書7章12節)と言われました。「これしてあげたら、あの人喜ぶだろうなあ」とか「あれしてあげたら、あの人うれしいだろうなあ」。そうした優しさの中にあるのが、律法に従って生きていくということだよ。律法に書いてあるから、これをしなければならない。やっていないあの人は律法に違反している悪い人だというようなのは、律法の正しい用い方ではないよ。イエスさまはそのように言われました。
私たちもファリサイ派の人々や律法の専門家のように、ときに冷たい考え方や行ないをしてしまうことがあります。でもやっぱり私たちのこころの中にある優しさを大切にしたいと思います。
イエスさまは私たちを愛して、私たちのために十字架についてくださいました。私たちはそのイエスさまの愛に包まれて生かされています。神さまは私たちに良き賜物を与えてくださり、その賜物いかして、世の人々と共に歩みなさいと言っておられます。神さまの愛に満たされて、私たちの中にある優しい気持ちを大切にして、思いやりをもって歩んでいきましょう。
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