2019年9月22日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨
「わたしたちの十字架」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 14:25~35節
10月22日は天皇の即位儀礼が行われるため、いわゆる「祝日」になるということを最近知りました。元号が変わったことにより、関心度が高まっているように思うと同時に、日本における血縁による意識のあり方を捉え直す時が来ているように感じています。
この聖書箇所は、イエスの後を付いて来た群衆がいたことを伝えています。「ついてくる」という言葉からは野次馬のような印象を受けそうになりますが、ここでは「旅をする」とも解釈できる単語が使われています。もしかすると、「なんとなくついてきた」のではなく、それ相応の覚悟や情熱を持った人たちがイエスの後にはいたのかもしれません。しかしイエスは「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を捨てるよう彼らに言い放っています。私たちにとっても「家族」はとても大切で捨てられるようなものではありません。様々な解釈ができる言葉かと思いますが、当時の社会背景においてはどのような意味がある言葉だったのでしょうか。血縁関係に起因する様々な利権があったのではないかと思います。今日の日本ではどうでしょうか。歴史は違いますが、やはり血縁関係は重要視されているように思います。しかしこのような意識に裏付けられる「立場」にどれほどの意味があるのでしょうか。
パウロはコリントの共同体に向けて書いた手紙の中で、共同体で起きた分裂を指摘しています。商業都市として栄えていたコリントの共同体は「私はパウロにつく、私はケファにつく」などの事を言いあい、それぞれの階層が生まれていたようです(犬養光博、2018年)。私たちも様々な方法で自分の立場を表明しているのではないでしょうか。しかし「どこに立つのか」という問いが私たちには迫っているのです。
イエスは「あなたの十字架は何か」と問われました。私たちは何を背負い、どのような立場にいるのでしょうか。止揚学園の福井達雨先生は「生命は重たい。生命を担ぐ人間は、コンクリートを担ぎ、鉄を担いで猛スピードで走る人間について行けない。それが自分の実感だ。」と語っておられたそうです。生命が軽視される今日にあって、いわれのない意識に依るのではなく生命に向き合いながらイエスの後を従うものでありたいと思います。
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