2019年9月10日火曜日

2019年8月25日

2019年8月25日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨
  「救われる人と」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 12:35~48節
 この箇所では、自分の職務をきっちりと守り主人を待つ僕のたとえ話などを通して、終末が訪れるまでにどのように生活するべきなのか語られています。当時のイスラエルで婚宴とは、現代とは違い数日にわたって行われるものでした。ですので、婚宴に出かけた主人が何時・何日に帰ってくるかわからないものでありました。またイエスは「主人が僕に食事の世話をする」と終末を説明します。私たちは終末をどのように捉えるべきなのでしょうか。
 当時のパレスチナは、ローマ帝国による厳しい支配下にありました。苦しい状況の中で、ローマ帝国ではなく「神による支配」を多くの人たちが求めました。しかしその考えは次第に、宗教的敬虔さを求めることとなり、聖書の決まり事を守ることだけが重要視され、ユダヤ人は「義人」と「罪人」へと分けられていきました。神の支配を求めながらも、宗教的敬虔さという思い込みにより、当たり前のように差別は正当化されたのです。イエスの活動はそのような「終末を待ち望む社会」でないがしろにされた〈いのち〉に向き合う、「見せかけの宗教的敬虔さゆえに〈いのち〉を損なっているあり方をみいだした」ものであったのかもしれません(上村静、2011年)。
 私たちも神が支配する平和な世の中を求めながら、見せかけの価値観を抜け出せていないのかもしれません。「食べへんかったら大きいなれへんで!」と小さい時によく言われました。この歳になって、同じことを教会で子どもたちに言っている自分に気づきました。そんな中、「ちお・おは」という言葉を先日知りました。これは「ちいさい・おおきい」、「おそい・はやい」を縮めた言葉だそうです。「大きいことはいいこと」、そんな考えは昔からあるように思います。しかし、小さいこともいいことです。スポーツでは長所になることがあります。「大きいことはいいことだ」という価値観が様々な差別に関係しているのではないでしょうか(山田真「(ち・お)ってなんだ?」)。
 この聖書箇所で、ペトロがイエスに問うています。ペトロもまたイエスに従っていながら、求めていた救い主のイメージは当時の世間で流布してた力強いメシア像でした。そんな見せかけの価値観は、イエスの死を前に、イエスとの関係性を偽りながら否定し、涙の中で打ち砕かれていきました。終末とは、私たちの見せかけの価値観や二元論とは違う、人々を「救われる人」と「そうでない人」に分けてしまうような価値観ではない、と聖書は語っているのではないでしょうか。

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