2019年10月7日月曜日

2019年9月29日

2019年9月29日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨
   「『赦して』と言えないけれども、ごめんなさい」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 15:11~32節
 放蕩息子のたとえには、限りなく深い神さまの愛が示されています。おろかな息子を愛して、愛してやまない父の姿として、神さまの愛が表されています。
 この放蕩息子のたとえのクライマックスは、帰ってきた息子を父が抱きしめて迎えるというところでしょう。そうしたことから考えると、前半で終わっていても良いと思います。そうしたら心地良い話として、このたとえは語り伝えられただろうと思います。しかし後半に兄が出てきて、なんとなく心地悪い話で、たとえは終わることになります。
 この放蕩息子のたとえには、どうして前半と後半があるのか。わたしはここに二つの問いかけがあると思います。一つは、「神は赦しても、わたしは赦せない」という問いかけと、「赦さない人がいる中で、わたしは神さまから赦されても良いのか」という問いかけです。
 放蕩息子のたとえは、前半と後半があることによって、私たちに人を赦すことのむつかしさ、また神さまから赦されているということがただならぬ出来事であることを、私たちに教えています。私たちの罪が赦されている。神さまが私たちの罪を赦してくださっているということは、本来はありえないような出来事であるということです。  
 神さまに対しても、また直接迷惑をかけてしまった父に対しても、弟は赦しを乞います。そして「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言い、本来、赦してもらいたいと言うようなおこがましいことを言うべきことではないのだと言っています。たやすく「赦してください」などと言うことはできないと思う。人が「あなたのことは赦さない」と言うのは当然だ。そのようなことをしてしまったのだから。赦されないことなのだ。そうしたことをわかった上で、それでも赦しを乞う以外にないということです。  
 弟は、「「赦して」と言えないけれども、ごめんなさい」と言いました。 赦されない、赦されないことだと思うけれども、しかし神さまの憐れみのうちに生きていくしかない。それが自分の罪に向き合う人のありようであると、聖書は私たちに語っています。  
 そして、私たちがどんなにおろかで罪深いものであったとしても、神さまは私たちを愛しておられる。私たちを憐れみ赦してくださる。放蕩息子の父親が、弟が帰ってくるのを待ち続けたように、神さまは私たちが神さまのところに帰ってくるのを待っておられます。 神さまの深い愛に感謝して、悔い改めつつ歩んでいきましょう。




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