2019年12月1日 待降節第1主日礼拝説教要旨
「私たちの救い主イエスさま、ありがとう」 小笠原純牧師
ヨハネによる福音書 7:25~31節
毎年、アドヴェントのときに、12月8日、開戦記念日はやってきます。岩波書店から「福音書」などの本を出しています塚本虎二は、内村鑑三の弟子で、絶対非戦論者でありました。しかし12月8日の開戦記念日について、次のように書いています。【特に開戦第一日の快勝を耳にした時は、痛快とも思い、「それ見たことか」とさえ感じられた】(長部日出雄『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』)。時代の闇は深いものだと思います。
エルサレムの人々は、「この人がどこの出身かを知っている」という形式的なことにこだわって、イエスさまが救い主であるということを受け入れようとはしませんでした。彼らはイエスさまが神さまの御心に従って歩んでおられるという決定的なことを知ろうとしませんでした。エルサレムの人々はもう暗闇に同化してしまって、神さまのことがよくわからなくなってしまっていたのです。
わたし自身も日常生活の中で、自分の暗闇に出会い、反省させられることがあります。少し前、人と話をしていて、あとから考えると「なんであのときあんな話し方をしてしまったのだろう。もっとほかの言い方があっただろうに」と思うことがありました。それで気を付けなければならないと思っていたのですが、先日もまた同じようなことがありました。自分自身ではどうすることもできない自分の暗闇の入り口に立っていたような気がして、わたしはとても不安な気持ちになりました。
【光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】と、ヨハネによる福音書は記しています。光が暗闇の中で輝いているのであれば、その光に気づきそうなものであるわけですが、しかし暗闇の世は、その光に気づかなかったのです。だからそこの暗闇であるのだと思います。それは不思議なことではなく、暗闇の中にあるということは、そのようなことなのです。
イエス・キリストはそうした暗闇の世に、私たちのために光となってきてくださいました。自分が暗闇の中にあることに気づかない愚かな私たちのところに、イエスさまは来てくださったのです。神さまの独り子であるイエス・キリストのご降誕をお祝いする準備をするアドヴェントのとき、私たちの罪深い歩みを振り返るときとしたいと思います。イエスさまは罪深い私たちを救ってくださり、私たちと共に歩んでくださいます。
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