2019年12月8日 待降節第2主日礼拝説教要旨
「最後の一人にまで」 宇野稔牧師
マタイによる福音書 20:1~16節
本日はおめでとうございます。牧会を退いた者が又招かれて皆様と一緒に礼拝を守れますことは喜びであり感謝であります。
教会の暦は待降節に入っていますが、今朝は創立記念日という点を大事に捉え聖書から聞きたいと思います。創立記念日の礼拝は、これまでの歩みを振り返り、新しくさらに希望をもって進むことを確認するためにあるのだと受け止めています。
さて、本日示されたテキストの前半から考えて結論的に述べますと、このたとえ話を聞いていた人全員がいまなすべきことは何であるかということを認識し、出かけるべきだったのです。
しかし、実はそうなれなかった諸々の事柄が山積し、また教会の現実を深く思いながら、もう一度、人々に聞いてもらいたいと思うのでこのたとえ話が語られています。
また、マタイは時間の書き方に深い意味をもたせています。ポイントは最後の5時(第11時)の人たちにも……というところです。主人自ら第11時になっても迎え入れるために出かけるのです。即ち、神の愛が第11時にも働き続けられているのです。主人の関心は終わりの1時間前にも未だ立ち続けている人に向けられているのです。
主イエスご自身が出かけられ救いの開始の時が、既に始まっているのです。
ぶどう園で働いている人々、即ち、仲間や私たちが同じであったように、「尚、外にいる」人々に寄り添い、先に招かれた者が「私たちを遣わして下さい」と云い、外に立っている人々にも自分たちと同じように神の恵みを分かち合いたいのです。そのために最後の一人に到るまで励むのです。
平安教会は目の前の150年に向かってさらに働きを続ける教会であるように、新しく迎えられた教師を中心に着実に進んでくださるよう祈っています。
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