2019年12月29日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
「世界中に知らされた」 桝田翔希伝道師
マタイによる福音書 2:1~12節
クリスマス礼拝、燭火讃美礼拝を恵みのうちに無事に終えられましたこと、神さまに感謝いたします。2019年最後の礼拝ですが、この一年はどのようなものであったでしょうか。元号が変わり、天皇についての報道が繰り返しなされた年であったように思います。天皇のことは教会から見れば、「外側」のことかもしれませんが、私たちが今一度問われている事ではないでしょうか。
公現日を控えたこの日にあって、聖書日課では「占星術の学者たちが訪れる」とされる箇所が選ばれていました。ここでイエスを訪ねて礼拝した学者たちというのは、どのような人たちであったのでしょうか。「星」は肉眼で見えるものは8,600個ほどあるのだそうです。現代のような技術もない時代にあって、星を観察して記録するというのは膨大な知識を伴うことであったでしょう。当時にあって学者たちはエリートとされる存在でした。一方でエルサレムにいた学者やヘロデも、聖書の知識は十分持ち合わせた人たちでした。エルサレムの人たちも救い主の誕生を知識として知っていましたが、学者たちのように礼拝しようとはしませんでした。ここに、「知識」と「生活(信仰)」が必ずしも結びつかない姿が描かれています。さらに知識的なエリートであった学者たちでしたが、その道のりは知識のみではなく、星(神)による不思議な導きによるものでした。
救い主が生まれたことは、外国の学者たちによってエルサレム中に知れ渡ったようです。しかし、ヘロデはその救い主が礼拝すべき存在であると知りながら、保身のために殺すことを考えました。救い主の誕生は世界中に知らされたものでありましたが、それと同時にエルサレムにあったそれまでの生活(信仰)が外国から問われた瞬間でもありました。同じように、日本の教会の歴史を振り返っても、外部から問われるということが何度もあったように思います。戦時中には、国家という教会の外部の言いなりになり、戦争に加担していきました。「外側」からの問いかけに、私たちはどれほど心を開けることができるでしょうか。また、イエスが活動された場所の多くは、都のような中心・内側ではなく、辺境であったり疎外された場所であったことを聖書は記録しています。
知識を越え、星に導かれた学者たちは、イエスという「生きた希望の生命」に出会いました。降誕節にあって、私たちもまたこの生命に出会っています。学者たちの物語を思い出す中で、この出来事は様々な問いかけの中を生き、どのように私たちが応えるのかということが語られているのではないでしょうか。
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