2020年3月10日火曜日

2020年3月1日

2020年3月1日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「神さまが養ってくださる」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書 4:1~11節
 2月26日(水)から、レント・受難節に入りました。イエスさまの御苦しみを覚えつつ、また自らの心の中の罪に向き合いつつ、しっかりとこのレント・受難節のときをすごしたいと思います。
 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、第二次世界大戦の時代に、ナチス・ドイツと戦った牧師です。アドルフ・ヒトラーの暗殺計画に加わりました。ただ「牧師として人を殺す計画に加わって、ほんとうにそれでよいのか」という悩みや迷いが、ボンヘッファーにはあっただろうと思います。
 最近、話題になっている検察官の定年延長についての事柄も、いろいろと考えさせられます。こうした誘惑を前に、「いやそれはおかしなことだと思うので、定年延長されても、63歳で辞めます」とわたし自身言えるかなあと思うと、ちょっとこころもとない気がします。できれば、こんな誘惑、目の前に現れないほうが良いのにと思うのですが、誘惑というのは、ときに私たちの目の前に現れて、私たちを苦しめます。人はいろいろな誘惑の前に立たされて悩みます。そして魂を売り渡したような決断をしてしまったあと、大きく後悔をするというようなことがあります。
 イエスさまは公的な活動をされる前に、悪魔から誘惑を受けられます。マタイによる福音書は、たまたま悪魔の誘惑に合われたのではなく、イエスさまが悪魔からの誘惑を受けるために、荒れ野に行かれたと記しています。イエスさまが悪魔の誘惑にあわれるというのは、人間を代表して、悪魔の誘惑にあっておられるのです。私たちが誘惑にあわれるのと同じように、イエスさまは誘惑にあわれるのです。
 イエスさまは誘惑を前にして、人は何によって生きているのかをはっきりさせた方が良いと言われます。そうすればその誘惑の前にかしずくべきなのかどうかが見えてくると言われます。イエスさまは、人は「神の口から出てくる一つ一つの言葉で生きる」。人は神さまの御言葉によって生きているのだと、イエスさまは言われました。人は神さまの「生きよ」という言葉によって生かされているのです。人は自分の力で生きているのではなく、神さまによって生かされているのです。
 私たちは弱いですから、日々の小さな誘惑を前にしても、どきどきしたり、誘惑を跳ねのけることもできず、あとで後悔したり、どうしてこんなに心が弱いんだろうと嘆いたりします。自分のことが恥ずかしくなることもあります。しかし、神さまによって生かされていることを、神さまが私たちをその愛でもって包み込んでくださっていることを、感謝をもって受けとめたいと思います。私たちを養ってくださっている神さまを信じて、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿