2020年3月2日月曜日

2020年2月23日

2020年2月23日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
  「命と糧と分かち合い」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 6:1~15節
 5000人以上の人々を前にしたイエスが、「この人たちを食べさせるにはどれくらいの金額がかかるか」と問うと弟子のフィリポは「200デナリオンよりもっとかかる」と答えています。ここで5000人とは男だけの数でありました。男性中心の意識が今より強かった時代状況を伺うことができます。そしてフィリポが「よりもっとかかる」と言ったのは、数えられない人たちがいたことも示唆させます。そして子どものが持っていたわずかな食料に頼らざるを得ないほどに、弟子(人間)たちは無力でした。この物語は様々に解釈されてきたように思いますが、聖書に書かれていることは非常に限定されており、どのようなことが起こったのかを想像する力が要求されます。
 今日よりも経済的に貧しかった当時にあっては、「食事」というものの意味合いは今よりも強く、また宗教的な意味合いも強くありました。夕食の時には必ず家族が集まり、祈りがささげられてから食べたのだそうです。一方、私たちが生きる現代で、食事の意味は大きく揺れ動いています。徳冨蘇峰と共に働いた松原岩五郎というジャーナリストは『最暗黒の東京』(1893年)には、当時の東京に「残飯屋」があり士官学校や繁華街の残飯が取引され、それを利用せざるを得ない人々の様子が記録されています。繁栄する東京とは対照的に「最暗黒」に置かれた人たちがいました。また、文明批評家のイヴァンイリイチは男性中心の社会にあって「家事労働」は重要視されないことを指して「シャドウ・ワーク(影の仕事)」と言いました。また、ナチスドイツ下のユダヤ人収容所では少ない食事でやせ細りながらも働かされた人たちがいました。このような「安価な労働力」によって成長した企業もありました。一方で現代に生きる私たちはどのような食事をしているでしょうか。社会が経済的に発展しようとするとき、労働者が人間であることを忘れることがあるのです(藤原辰史、2014年)。私たちの社会の中にも、「人間であることを忘れさせる」ような力の中で、隠されていたり気づいていないことがたくさんあることを思わされます。
 パンと魚を巡ってどのような奇跡が起こったのか、私たちには分かりません。イエスを中心に分かち合いの連鎖があったのかもしれません。しかし聖書は、2匹の魚と5つのパンで人々が、確かに満たされたことを伝えています。ここには無力にも思える人間が確実に持つものを活かしてくださるイエスの姿があります。私たちは弱い存在です。社会の大きな力を前に多くのことを忘れ去ってしまいます。しかし知りえない部分を想像する中で、私たちの力を活かしてくださる神の力を信じ、祈り歩みましょう。

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