2020年3月17日火曜日

2020年3月8日

2020年3月8日 受難節第2主日礼拝説教要旨
   「過去に目を閉ざす」 桝田翔希伝道師
     ヨハネによる福音書 9:13~41節
 ヨハネによる福音書9章では、生まれつき目が見えなかった男性がイエスによって見えるようになるという奇跡物語が描かれています。私たちは、奇跡物語を読むとどうしても「どのように奇跡が起こったのか」という瞬間的な事に注目してしまいがちかもしれません。しかし41節にわたり書かれているこの物語の背後には、奇跡だけでは終わらない神の働きが描かれています。物語の初めで、弟子たちは目の見えない人を見て、「見えないのは、この人が罪のせいなのか、それとも親の罪のせいか」とイエスに尋ねます。即ち、病の原因を気にしています。罪のせいで病が現れるという因果応報のような考えは、当時のユダヤ教社会で一般的に考えられていたことでした。しかしここでイエスは原因に注目するのではなく、どの人にも神の業が現れるということを語られます。注目するべきは、瞬間的なものではなかったのです。
 これを知った人たちは大議論を始めます。目の見えない人を癒す奇跡というのは、旧約聖書の中では救い主だけがすることができる奇跡とされ、これを行うことができた人はいませんでした。イエスを救い主と認めざるを得ない状況でありました。信じたくなかったファリサイ派の人たちは奇跡の起こった人にしつこく質問します。しかし最後には「あなた方もイエスの弟子になりたいのですか」と言い返されてしまい、腹を立てその男性を会堂(社会・議論)の外へと追いやってしまいました。イエスの弟子になるとはどういうことなのか、それは奇跡を受けることではなく、神の愛の中で変わっていくことなのかもしれません。目が見えるようになった人が追い出された後、再びイエスが現れこの人と対話をしています。
 私たちが生きる社会では、病気の原因が罪であるとは考えませんが、大きな変化の中を生きています。弟子たちのように「この人の罪のせいか」と問うことはありません。しかしここでイエスが示されたのは、救いへの課程であったのではないでしょうか。イエスが示しておられる方向性を考えながら歩むものでありたいと思います。



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