2020年3月22日 受難節第3主日礼拝説教要旨
「良い香りが満ちた教会」 小笠原純牧師
ヨハネによる福音書12章1-8節
ヨハネによる福音書では、ラザロの姉妹のマリアが、イエスさまの葬りの備えとして、ナルドの香油を用いたという話になっています。マリアは大切な兄弟であるラザロを生き返らせてくれた感謝の気持ちを表すために、特別にイエスさまの足に高価なナルドの香油を注ぎ、そして自分の髪でイエスさまの足をぬぐったのでした。
そうすると「家は香油の香りでいっぱいになった」と聖書には記されてあります。イエスさまに特別な仕方で感謝をささげる女性がいて、そして部屋中がナルドの香油の良い香りで満たされている。とっても幸せな気持ちに、みんながなったことだと思います しかしその幸せな感じをぶち壊すことを言う人が出てきたわけです。それはイスカリオテのユダでした。
わたしは合理的に考えることがどちらかと言えば好きですので、この「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉に引き寄せられてしまいます。合理的な判断ということから考えると、ひとりの人の足に300万円のナルドの香油を注ぐよりも、まあ貧しい人々のために300万円使ってもらうことの方が良いような気がします。ただイエスさまは言われます。「この人のするままにさせておきなさい」。イエスさまは合理的な判断を大切にされたのではなく、マリアのこころからの感謝の気持ちを大切にされました。わたしはこのナルドの香油の物語をよむときに、合理的だけど・愛のない自分がいることに気づかされます。
「あのときマリアがナルドの香油を、イエスさまの足にかけてあげて、葬りの備えをしてあげてよかったよね。ほんと良かったと思う」。「イエスさまの十字架のときは、十分なことがしてあげられなかったもんね」。「あのとき部屋のなかにナルドの香油の香りがいっぱいになって、みんなとっても幸せな気持ちになったよね」。多くの人々がそういう気持ちを持っていたからこそ、このナルドの香油の物語は、2000年たっても色あせることのない素敵な出来事として語り伝えられているのです。
私たちの教会はナルドの香油の香りがいっぱいになった家のように、良きイエスさまの香りのする教会でありたいと思います。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という叱責が響き渡る教会ではなく、イエスさまの良き香りのする教会でありたいと思います。そしてイエスさまの良き香りに導かれて、イエスさまが大切にされた歩みを、私たちも歩んでいく、そうした私たちの歩みでありたいと思います。
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