2021年4月23日金曜日

2021年4月18日

 2021年4月18日 復活節第3主日礼拝説教要旨

   「しるし」 木村良己牧師

    (元同志社中高キリスト教科教諭・紫野教会副牧師)

   マタイによる福音書 12:38ー42節

(1)「しるし」

 ■現代は「不信の時代」と呼ばれる。人間という存在が如何に信頼できないか!という前提で、「しるし・証拠」が位置づけられている。だから「しるしを見せろ!」「証拠を見せろ!」と息巻く。しかし、あらゆる問題は「信頼を寄せる」「信じる」ことでしか解決できないような気もするし、信頼を寄せた者だけが希望を捨てずに、その一瞬先をこじ開けることが出来るようにも思う。           

(2)マタイ12章38~42節:「人々はしるしを欲しがる」

 ■見出しは太字で「人々はしるしを欲しがる」と記されている。16章1~4節にも全く同じ太字の見出しがあり、いずれも当時の宗教的指導者たち=本来は対立関係にあったはずの三者が、共通の敵「イエスを試そうと」する。相手を信頼しない者たちから「しるしを見せろ!」とのやり取りが投げかけられるという、当時の権力構造の中にいる宗教的指導者たちとの対決こそが著者の意図なのだろう。   

 ■イエスはその「しるし」として、「預言者ヨナ」(旧約p1445~1448ヨナ書)、「南の国の女王」(旧約p546~p547列王記上10章1節~13節)を指し示す。

 ユダヤ人宗教的指導者たちが「聞く」ことをせずに目に見える「しるしを見せろ!」と息巻き、一方彼らが日頃から蔑視する異邦人「ニネベの人」「南の国の女王」が「聞いて悔い改めた」という「しるし」を示す所に、イエス一流の皮肉がある。

(3)「湖西線旧型車両の4人掛けBOXシート」=「後ろ向きに前進!」

(4)隠されている未来に向かって!

 ■イエスは「しるし」そのものを否定はしない。「しるし」を求める人々の態度を拒否する。「神の国=すべての人々と共存しうる世界」を目指すキリスト者にとって、イエスの言葉・振る舞いこそが神の国を指し示す「しるし」である。「しるしを見たら信じてやろう!」という態度に、神が「しるし」を見せることはない。求めないではいられない己の貧しさを知る人にこそ、神は「しるし」を見せる。そのイエスの言葉・振る舞いと直接的に出会い、神が為された過去をしっかりと見つめながら、隠されている未来に向かって「後ろ向きに前進」して行きたい。


2021年4月15日木曜日

2021年4月11日

 2021年4月11日 復活節第2主日礼拝説教要旨

   「信じられない弱さを抱えて」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 28:11-15節

 イエスさまがよみがえられたことを記してある復活の記事は、四つの福音書にそれぞれの形で記されてあります。マタイによる福音書は、復活の出来事を素直に信じて、そしてその喜びを謙虚に伝えていくということの幸いを、私たちに教えてくれています。

 イエスさまが十字架につけられたあとの弟子たちの歩みを考えるときに、それはイエスさまの復活がなかったとは考えられない歩みです。イエスさまが十字架につかれたとき、イエスさまを裏切り、ばらばらになった弟子たちが、キリスト教を広めていったのです。そういう意味において、復活は確かにあったと言えるわけです。けれどもだからといって、復活を証明できたということにはなりません。復活を証明することは不可能なのです。

 わたしは、マタイによる福音書28章17節の聖書の箇所が好きです。【そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】。ひとつにはこの聖書の箇所を読むと、「おー、わたしが出てきた」というふうに思うからです。「わたしのことが聖書に記されているなんて、光栄だ」というふうに思います。そしてもうひとつには、「なんや、わたしのような信仰の弱い人は昔からおったんや」と、妙に安心するからです。

 復活は神さまの出来事です。神さまの出来事は、私たち人間を越えて働きます。私たちが信じようと信じまいと、そんなことには関係なく、神さまの出来事がなされるのです。弟子たちがイエスさまの復活を信じることができたのは、イエスさまが弟子たちのところにやってきてくださったからです。弟子たちもまた「信じられない」という弱さを抱えて生きていました。しかしイエスさまからのお働きによって、信じる者とされたのです。そしてなかなか信じられない人々もいたのです。しかしそうした人間の側の弱さを越えて、神さまの働きはなされるのです。

 自分の不信仰を嘆くのではなく、不信仰な私たちを憐れみ、愛してくださる神さまに希望をおいて歩んでいきましょう。私たちは神さまのことを忘れてしまうかも知れませんが、しかし神さまは私たちのことを忘れることはありません。


2021年4月8日木曜日

2021年4月4日

 2021年4月4日 復活節第1主日礼拝説教要旨

    「希望に変わる朝」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 20:1ー18節

 イースター、おめでとうございます。主イエス・キリストのご復活を心からお祝いいたします。イースターの出来事は人間が負け、そして神さまが勝利された出来事です。人間は負けたのです。人を辱めることによって、自分をはずかしめ、力を合わせて生きていくのではなく、人をおとしめることによって生きていく道を、人間は選んでいくのです。しかしそうした希望のない人間に対して、神さまはイエスさまを復活させてくださり、そして私たちの希望の光としてくださったのです。

 受難物語や復活物語をよむときに、「人間って、だめだな」ということを思わされます。復活物語は、イエスさまがよみがえられたことを弟子たちがすぐに信じたというようなことが記されているわけではありません。信じられない人間の姿が描かれています。しかしこの「人間って、だめだな」ということがとても大切なことなのだと思います。

 将棋やチェスのようなボードゲームには、最後までゲームをするのではなく、「投了」という形で負けを認めるということがよく行なわれます。負けている側が「負けました」と言って、ゲームを終えるわけです。そして将棋などではそのあと「感想戦」があるわけです。行なわれたゲームをふりかえるのです。しっかりと負けを認めて、そしてどのような負けであったのかということを振り返ることによって、新しい歩みが始まるのです。

 イエスさまの遺体がないことに混乱し不安になったマグダラのマリアは泣くしかありませんでした。しかしそののち、天使たちに出会い、そして園丁のように見えたイエスさまに出会い、そしてイエスさまから「マリア」と声をかけられ、よみがえられたイエスさまに気がつきます。そして最後にはっきりと、マグダラのマリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに告げたのです。

 その「わたしは主を見ました」とのきっぱりとしてマグダラのマリアの声に、私たちは希望の朝があることを知るのです。イエス・キリストが私たちのためによみがえってくださり、希望の朝をもたらしてくださるのです。私たちを赦し、私たちを励まし、そして私たちをもう一度立ち上がらせてくださるのです。

 イースター、よみがえられたイエスさまと共に、安心して歩んできましょう。主イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちと共に歩んでくださいます。


2021年4月2日金曜日

2021年3月28日

 2021 年 3 月 28 日 受難節第6主日礼拝説教要旨

    「いやな私がここにいる。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 27:32 ー 56 節

 今日は棕櫚の主日です。棕櫚の主日から、イエスさまが十字架につけられる受難週が始まります。

 今期、芥川賞に選ばれた、宇佐美りんの「推し、燃ゆ」を読みました。宇佐美りんは受賞者インタビューのなかでこんなことを言っています。【よく、「明けない夜はない」というようなことを言う人がいますよね。もちろんそれはその人にとっての真実だと思うのですが、私は「明けなさ」もあると思っていて。私は、少なくとも三年の間「夜が明けない」状況で出口が見えなかった。だから「明けない夜はない」とか、そういうことは言えません。自分にとって本当に大切だった人や時間が壊れていく喪失感や痛みにどうやって耐えるか、耐えられなくても続く現実とはどういうものか、そういうことに関心があります】(文藝春秋 3 月号)。マタイによる福音書の著者は、イエスさまの苦しみや、イエスさまを取り巻くイエスさまの弟子たち、ユダヤの指導者たち、ヘロデ王、総督ピラト、十字架の下の兵士たち、十字架の上の強盗たちについて、「明けない夜」の様子を丁寧に描いています。

 受難物語を読むとき、「いやな私がここにいる」と思います。私たちは生活の中で、出会いたくないいやな自分に出会うことがあります。大きな声で人をどなっていたり。悪いとわかっているのに「自分は悪くない」と言い訳をしたり。自分より立場の弱い人にいじわるをしてみたり。卑怯なことをしているとわかっていても、恐くて恐くてたまらなくなり逃げ出してしまったり。人をおとしめることで、どうにか自分の立場を守ってみたり。そうした自分に出会うとき、自分のことがとてもいやな気がします。

 そして私たちは私たちの悪しき歩みが、イエスさまを苦しめ、イエスさまを十字架へとおいやっていくことを知るのです。自分の心の中にある悪しき思いを見つめることは、とても苦しいことです。しかし私たちの中にある悪しき思いを深く深く見つめることによって、それでも私たちを愛し、そして救ってくださる神さまの愛に出会うことができるのです。どんなに愚かで、どんなにいい加減な人間であったとしても、わたしを愛し、わたしを救ってくださる神さまがおられるのです。その神さまの愛が、私たちの希望であるのです。