2021年4月2日金曜日

2021年3月28日

 2021 年 3 月 28 日 受難節第6主日礼拝説教要旨

    「いやな私がここにいる。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 27:32 ー 56 節

 今日は棕櫚の主日です。棕櫚の主日から、イエスさまが十字架につけられる受難週が始まります。

 今期、芥川賞に選ばれた、宇佐美りんの「推し、燃ゆ」を読みました。宇佐美りんは受賞者インタビューのなかでこんなことを言っています。【よく、「明けない夜はない」というようなことを言う人がいますよね。もちろんそれはその人にとっての真実だと思うのですが、私は「明けなさ」もあると思っていて。私は、少なくとも三年の間「夜が明けない」状況で出口が見えなかった。だから「明けない夜はない」とか、そういうことは言えません。自分にとって本当に大切だった人や時間が壊れていく喪失感や痛みにどうやって耐えるか、耐えられなくても続く現実とはどういうものか、そういうことに関心があります】(文藝春秋 3 月号)。マタイによる福音書の著者は、イエスさまの苦しみや、イエスさまを取り巻くイエスさまの弟子たち、ユダヤの指導者たち、ヘロデ王、総督ピラト、十字架の下の兵士たち、十字架の上の強盗たちについて、「明けない夜」の様子を丁寧に描いています。

 受難物語を読むとき、「いやな私がここにいる」と思います。私たちは生活の中で、出会いたくないいやな自分に出会うことがあります。大きな声で人をどなっていたり。悪いとわかっているのに「自分は悪くない」と言い訳をしたり。自分より立場の弱い人にいじわるをしてみたり。卑怯なことをしているとわかっていても、恐くて恐くてたまらなくなり逃げ出してしまったり。人をおとしめることで、どうにか自分の立場を守ってみたり。そうした自分に出会うとき、自分のことがとてもいやな気がします。

 そして私たちは私たちの悪しき歩みが、イエスさまを苦しめ、イエスさまを十字架へとおいやっていくことを知るのです。自分の心の中にある悪しき思いを見つめることは、とても苦しいことです。しかし私たちの中にある悪しき思いを深く深く見つめることによって、それでも私たちを愛し、そして救ってくださる神さまの愛に出会うことができるのです。どんなに愚かで、どんなにいい加減な人間であったとしても、わたしを愛し、わたしを救ってくださる神さまがおられるのです。その神さまの愛が、私たちの希望であるのです。


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