2022年1月7日金曜日

2021年12月26日

 2021年12月26日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

 「喜びの中のクリスマス」 山下毅牧師

  マタイによる福音書 2:1-12節

 私の信仰の友である牧師さんから、年末にお手紙を頂きました。それは「クリスマスのお祝い」、「年賀状」、「喪中につきの挨拶」という内容でした。日本の習慣では、年賀状を控えるという習慣が未だ残っていますが、そのような習慣を乗り越えて、自分は進むという内容でした。「自分は愛する兄が亡くなって悲しいけれども、その悲しみを強い力で喜びに変える力が、クリスマスにはある、私はいつでもクリスマスの喜びの中に立ち得る、そういうものがクリスマスではないか」と記されていました。――本当に教えられるものがあります。

 マタイ2章1-12節の聖書箇所は本当に喜びの少ないところです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記されているこの箇所だけが喜びがあるのです。しかも、マタイ2章全体は「殺意」、「恐れ」、「悲しみ」に満ちています。しかも、「喜びにあふれた」のは、ユダヤの民にとっては、捕囚の地バビロンから来た、禁じられている占いを業とする、占星術の学者達でした。異邦人でした。--ユダヤの民は、ベツレヘムで救い主の御子が、旧約聖書「ミカ」の預言で生まれることを知っていながら、誰も会いに行きませんでした。――ここに考えさせるものが有ります。私たちは本当にクリスマスを心から喜んでいるでしょうか。喜んでいても薄っぺらな喜びであるのではないでしょうか。――神は、星占い自体は間違っており、学者たちが異邦人であることも承知しておられました。三人の学者をお立てになりました。これは神のなさることです。――学者達は、星を頼りに、険しい道のりを旅して来たのです。分からなくても尋ねたのです。そして彼らの求道の旅に、神が答えて下さったのです。「東方で見た星が、先立って進み、ついに幼子のいる場所で止まった」のです。本当の王がおられることを、星がついに指し示すことが現実となったのです。学者達は、自分らが大切にしていたささげ物をささげました。――救い主は人間の罪の墓に生まれ、墓に葬られましたが、三日目に墓の内からよみがえられました。私たちの立つ位置は神から遠いように思う思いは私たちの思いです。――しかしその遠さは、神にとっては、ものの数ではありません。神ご自身が私どもに近づいてくださるのです。どんな自分の不信仰に逆らっても、「されど」、「神は私たちの父」と叫ぶことのできるのです、クリスマスの喜びの歌声が生まれるのです。


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