2022年1月7日金曜日

2022年1月2日

 2022年1月2日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

 「神と人とに愛されて」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 2:41−52節

 クリスマス、イエスさまをお迎えして、新しい年の歩みを始めました。

 佐高信さんの『日本国憲法の逆襲』(岩波書店)には、佐高信さんと、落合恵子さんの対談がのっています。落合恵子さんは「むすんでひらいて」が大切だといっています。【落合「私たち、より声の小さいほうにいる側は、「どれだけ手を柔らかく握り合うことができるか」が大切ですよね。ギュッと強く握り合い、自由に動けなくなるのは、いま声の大きい側の人たちがやっている。そうではなく、「むすんでひらいて」ができるような柔らかさをもって個人としてどれだけつながっていけるかが問われているような気がします」】。

 ルカによる福音書2章52節の【イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された】という言葉を聞くと、なんかとってもほっとします。イエスさまは神の子として、神さまから祝福され、そして人々に愛されて育たれたのでした。このイエスさまが迷子になられたという話も、マリアやヨセフたちはあわてたでしょうが、なんかとってもあたたかみのある話です。

 しかしまたほっとするのと同時に、私たちはこれからのイエスさまの歩みに思いをはせます。イエスさまは「小さくても神の子」です。イエスさまは神の子としての歩みをなさいます。「神と人とに愛される」というのは、とても意味深長な言葉だと思います。イエスさまは神さまから愛されていました。しかし神さまは私たちの罪のために、イエスさまを十字架につけられたのです。そして神の子として歩み始められたイエスさまを、はじめこそ人々は歓迎したわけですが、人々はののしりながら、イエスさまを十字架につけたのでした。

 私たちはイエスさまによって、自らの罪をあがなっていただき、罪をあがなわれた者として生きています。罪をあがなわれた者として生きるということは、人を信頼して生きていくということだと思います。もちろん人は罪人の集まりですから、裏切られることもあるかも知れません。しかし同じ罪人として、それでも信頼して生きていくということなのです。

 私たちは「むすんでひらいて」生きていくことが大切だと思うのです。凝り固まって人を裁いたり、ぎゅっと手をにぎって自分の方に引っぱっていくのではない。私たちが手を開いても、神さまはいつもその人と共にいてくださいます。神さまのお守りのうちに、新しい年も健やかに歩んでいきましょう。


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