2022年1月13日木曜日

2022年1月9日

 2022年1月9日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

 「あなたはわたしの愛する子」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:9−11節

 わたしがクリスチャンになったのは、まだ18歳の青年でした。クリスチャンになるということに、ある種の気負いがあったように思います。「りっぱなクリスチャンにならないといけない」。しかしいまはそうした気負いというものがなくなって、いい意味で、ただのクリスチャンという気がします。わたしはとくに敬虔なクリスチャンになることもできませんでした。でもわたしはクリスチャンになってほんとうによかったと思います。わたしはクリスチャンになって、神さまに委ねて生きるということの確かさを味わうことができました。たぶん自分を頼りにして生きていたら、わたしは大変だっただろうと思います。困難にぶつかった時、わたしは人生を投げ出してしまったかも知れません。しかしわたしは幸いなことにクリスチャンだったので、神さまにお委ねして生きるということを心においています。わたしはとても幸いだと思います。

 W.H.ウィリモンというアメリカの神学者は、『洗礼 新しいいのちへ』(日本キリスト教団出版局)という本の中で、洗礼についてこう記しています。「キリスト者は、洗礼を通して、しかも最終的に、自分が誰であるのかを学ぶのです。洗礼は、アイデンティティを与える式です。洗礼は、あなたが誰であるのかということについて、論じるのではなく断言し、説明するのではなく宣言し、要求するのではなく断定し、ほのめかすのではなく行為によって明らかにし、描き出すのではなくそのように生きよと働きかけます」(P.35)。

 神さまはイエスさまに語られたのと同じように、私たちに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけてくださっています。私たちはりっぱであるわけでもありません。どちらかと言えば、崩れ折れてしまうような弱さを抱えて生きています。もちろんできれば良き人でありたいと思います。りっぱな人でありたいと思います。しかし弱さを持ち、どうしたらいいのかわからない不安を抱えるときもあります。到底、神さまの御心に適う者として生きているとは思えません。しかしそれでも、私たちは神さまにとって、「わたしの愛する子」なのです。私たちがどんな者であったとしても、神さまにとって私たちは「愛する子」なのです。私たちは愛の神によって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という恵みの中に入れられています。

 神さまは「さあ、わたしと共に歩もう。わたしの愛する子よ」と、私たちを招いてくださっています。2022年の歩みが、あなたの人生にとって新しい歩みとなりますようにとお祈りしています。


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