2022年1月16日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
「招いてくださる方がいる幸い」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 1:14-20節
ジブリの映画にもなりました、角野栄子の「魔女の宅急便」は、主人公の魔女であるキキが住む街を決める話から始まります。自分の住むところを自分で決める。わたし自身はそうしたことがありませんでした。わたしは牧師という仕事につきましたので、赴任した教会に住むことになります。牧師は招かれてその教会に赴任します。辞令が出て「ここに行きなさい」ということではなく、招いてくださる方々がおられるところに行くということの喜びがあるような気がします。それは住む街を自分で決めるのとは、また違った喜びのある歩みだと思います。
四人の漁師を弟子にする」という、イエスさまの弟子選びの話の基本は、「イエスさまは招き、弟子たちは応える」ということです。弟子たちが、わたしはあなたの弟子にふさわしいから、あなたの弟子になると言ったわけではありません。イエスさまが弟子たちを招かれ、そして弟子たちはその招きに応えたのです。
わたしはここに、「招かれている幸い」ということがあると思います。就職活動をしている学生が落ち込むメールに、「お祈りメール」というのがあります。不採用通知を知らせるメールのことです。最後に「心よりお祈り申し上げております」とあるので、「お祈りメール」と言われます。お祈りされているけど、招かれてはいないわけです。入試の合格不合格電報も「サクラサク」「サクラチル」とかありました。世の中は、合格不合格というようなことが多いわけです。
しかしイエスさまは弟子たちを招かれました。イエスさまは「お前は要らない」と言われませんでした。イエスさまはすべての人を招かれます。イエスさまの弟子である12弟子には、イスカリオテのユダがいます。イスカリオテのユダは、イエスさまを裏切って、ユダヤの指導者たちに引き渡し、イエスさまは十字架につけられることになります。しかしイエスさまは自分を裏切ることになるイスカリオテのユダを招かれ、自分の弟子としたのです。イエスさまは罪人と言われ、人々から嫌われている人たちを招かれました。イエスさまは罪人を招き、一人一人が神さまの愛のうちにあることを伝え、祝福をされたのでした。
弟子たちを招かれたイエスさまは、私たちひとりひとりを同じように招いておられます。「あなたは大切な神さまの子なのだ」「神さまあなたのことを愛しておられる」「わたしについて来なさい」。イエスさまの招きに応えて、神さまの愛のうちを歩んでいきましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿