2022 年 4 月 10 日 受難節第6主日礼拝説教要旨
「人に言えない悲しい出来事を越えて」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 14:32-42 節
今日は棕櫚の主日です。受難週、イエスさまの御苦しみを覚えて過ごしましょう。
受難週にふさわしい言葉として語られる言葉に、17世紀の哲学者であるブレーズ・パスカルの言葉があります。「イエスは世の終わりまで苦悶されるであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない」(『パンセ』)。
イエスさまは十字架につけられる前に、ゲッセマネで祈られました。イエスさまから「目を覚まして祈っていなさい」と言われるわけですが、しかし弟子たちは何度も眠ってしまいます。
ゲッセマネでの出来事は、イエスさまの弟子たちにとっては、とてもつらい出来事であったと思います。後悔の残る出来事でした。「あのとき、どうして目を覚まして祈ることができなかったのだろう。
そうした後悔の残る出来事であったと同時に、やはり弟子たちにとっては恥ずかしい出来事であったと思います。もちろん、やろうと思ってもできなかったわけですから、仕方のないことです。しかしのちの人たちは、「どうしてイエスさまが苦しんでおられるのに、弟子たちは眠りこけてしまったんだ。信仰がないからではないか」「ほんとにだらしのない、ろくでもない弟子たちだ」と責め立てるのです。
「わたしがその場にいたら、イエスさまのために、必死でお祈りしたのに。ほんと、イエスさまがかわいそう」と言うのです。
そうしたことをわかっていたと思うのですが、弟子たちは自分たちにとって都合の悪い、恥ずかしい出来事を、人々に伝えました。なさけない、欠けの多い私たちだけれども、イエスさまは私たちのことをいつも愛してくださった。愚かなことをしてしまう私たちだったけれども、イエスさまは私たちのことを導いてくださった。イエスさまは深い愛で、いつも私たちを包み込んでくださった。イエスさまの弟子たちは、人に言えない悲しい出来事を越えて、自分の愚かさを受けとめ、悔い改めつつ歩み始めました。
人は失敗をしたり、恥ずかしいことをしてしまったり、神さまの前に立つことのできないような歩みを繰り返したりすることがあります。「わたしだめな人間だ」「わたしは必要とされていない人間だ」。そのような思いになってしまうようなときも、私たちにはあります。しかし神さまは私たちを愛してくださり、私たちに新しく生きなおす道を備えてくださいます。
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