2022年6月4日土曜日

2022年5月29日

 2022年5月29日 復活節第7主日礼拝説教要旨

 「栄光を表す時」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 17:1-13節

 人の祈りはうまく聞こえます。みんなの前で祈るのは苦手だと思う方がおられると思います。わたしも苦手です。辞典には「祈祷は賜物として神から与えられ、人は祈り得るものとさせられる」とあります。なぜ人の祈りはうまく聞こえるのかと言いますと、本来祈りというものは、神さまから与えられるものだからです。私たちは祈る時に、格好をつける必要はないのです。

 イエスさまは大祭司として、弟子たちのために神さまに対して執り成しの祈りを献げてくださっています。イエスさまは「彼らは、御言葉を守りました」「彼らはあなたのものだからです」というように、弟子たちが神さまのものであることを、一生懸命に神さまに祈っておられます。

 イエス・キリストの歩みを思い起し、イエス・キリストの大祭司の祈りを思うときに、私たちはとても励まされます。神さまのみ旨にしたがってキリスト者として生きていくとき、たとえ私たちの歩みがみじめな歩みであったとしても、私たちは栄光に包まれています。イエス・キリストもこの世から敗北と見える十字架の道を歩まれました。そしてそのイエス・キリストが、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっているのです。

 格好のいい生き方、ソツのない生き方というものに、私たちはどうしてもあこがれます。わたしもそうです。姿形がかっこよくないのだから、せめて生き方くらいちょっとはかっこよくありたいと思います。「なんで自分はもっとかっこよくふるまうことができないのだろう」。そんな思いがどうしても私たちの心にはわきあがってきます。しかしそれは自分がよく見られたいという自分の栄光のためであって、神さまの栄光とは関係のないことです。

 「もっとかっこよく、もっとそつなく」というような気持ちがすべて悪いということはないと思います。しかし私たちは神さまと向き合うときくらい、そうした思いから解放されて、素直に自分を表わしたのでいいのです。神さまに向き合う祈りのときでさえ、私たちは自分の格好や自分の栄光ということのほうが気になったりします。しかしほんとうに神さまが私たちに求めておられることは、そうした私たち自身の格好の良さではなく、素直な気持ち、素直な祈りなのです。

 イエスさまは神さまの栄光をあらわすために、自分は十字架につかれました。私たちは自分の栄光を求めるのではなく、神さまの栄光があらわれるような生き方へと歩んでいきましょう。


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