2022年7月15日金曜日

2022年7月10日

 2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

 「あきらめない」 堀江有里牧師

   マルコによる福音書 7:24-30節

 信仰生活の出発点である平安教会の礼拝に参加できますことを心より感謝いたします。

 日本基督教団常議員会で男性同性愛者が牧師になることを「簡単に認めるべきではない」という発言がありました。すでに性的少数者の牧師たちはいました。わたしも「レズビアン」であることを表明していましたし、トランスジェンダーであると表明して牧師になった人もいました。しかし、公の問題となったのは1998年だったのです。

 発言に対しては即座に「差別だ」、「撤回するべきだ」という声があがりました。そこで一貫して主張された内容はシンプルでした。「差別は人を殺す」。いくつもの教会で性的マイノリティだと自分を表明した人たちが牧師や長老から責められ、追い詰められ、自ら死を選ばざるをえない状況にあったからです。

 問題とされた男性は牧師になりましたが、「差別」だとの指摘は教団で話し合われることはありませんでした。しかし、そのプロセスで与えられてきたことも少なくはありません。ひとつはキリスト教の世界も少しずつ変わってきていること。「差別はいけない」という合意がつくられてきています。もうひとつは抗議と抵抗の闘いのなかで女性たちのつながりがその後も残されていったこと。担い手はそれまで性差別問題への取組を進めてきた女性たちでした。性的少数者がおもな担い手となった欧米の教会とは大きく異なります。わたしたちは激しく議論になっても、ちがいがあっても、対話を「あきらめない」と決断したからこそ、お互いを支え合っていけたのだと思います。

 今日の物語は幼い娘をもつひとりの女性とイエスの出会いです。この人だったら娘を助けてくれるかもしれないとやってきた女性に対し、イエスの対応はあまりに冷酷です。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27)。救いはイスラエルの民だけにもたらされると考えられていた時代、この女性は「対象外」です。しかし、女性は食い下がります。イエスはその言葉に心動かされたようです。「それほど言うなら、よろしい」。つまりは「わかった」ということです。そして娘の不調は癒やされたという物語です。

 この女性は引き下がらなかった。そこに対話の可能性を切り開く回路がみてとれます。一度は拒絶したイエスも応じて自らを省みるのです。「あきらめない」ことの希望を、わたしたちは、この物語から読みとることができるのではないでしょうか。


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