2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
「はっきりと見える人に」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 8:22-26節
わたしには大切にしている特別のうちわがあります。それは夏の暑い日に、妻がわたしにくれたうちわです。このうちわは、「絵が飛び出す!!、ステレオグラムうちわ」です。はじめは見えないのですが、やっているうちに見えない絵が、飛び出すような形でみえてきます。
「見える、見えない」ということだけでなく、「わかった、わからない」ということも、ほんとうはとてもあいまいであったりするのです。自分には物事がすべてわかっているというふうに思えるときがあります。しかし何かの拍子に、今までそう思えていたことが嘘のように、まったく自分が何もわかっていなかったということに気づかされるということがあります。自分にははっきりと見えていたと思えていたのに、それは誤りでありぼんやりとしか見えていなかったということに気づかされるのです。たとえば、いろいろな差別の問題に対して取り組み、長い間そのことを考えて続けていても、差別されている人の言葉にはっとさせられて、今までわかっていたと思っていたのに、実際は何もわかっていなかったということに気づかされるということがあります。
イエスさまは、はじめ唾をつけ、両手を盲人においていやされました。彼はそれによって、ぼんやりと見えるようになります。そしてイエスさまが、もう一度両手を目に当てられると、今度は「何でもはっきり」見えるようになります。このイエスさまによるいやしは、ひとりの盲人がいやされたという喜びの出来事であると同時に、多くの人々がイエスさまによって、新しくされるということを、比喩的に表わしています。
イエスさまは弟子たちに、「目があっても見えない。耳があっても聞こえない。覚えていない」(マルコ8章18節)と言われました。私たちも同じようにイエスさまを信じられず、イエスさまから叱られてしまう者です。しかしイエスさまは弟子たちを叱り、くりかえしくりかえし導いてくださったように、私たちを導いてくださいます。私たちはイエスさまに出会ったことによって、必ず私たちはよき方向へ導かれるのです。
私たちはいま、イエスさまと出会った盲人と同じように、ぼんやりと見えているということであるのかも知れません。はっきりとイエスさまのことがわかっているのではないかも知れません。しかしイエスさまは盲人にもう一度手をおかれ、「はっきりと見えるように」してくださったように、私たちをもイエスさまについて行く者へと、しっかりと導いてくださるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿