2022年9月30日金曜日

2022年9月18日

 2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは私たちを見ていてくださる」 

              小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:35-44節


 ことしは日中国交正常化50周年の年です。2202年9月29日がその日です。内山完造の『花甲録 日中友好の架け橋』(平凡社)を読んでいました。内山完造は中国の評論家であり小説家である魯迅を、いろいろな面で助けた人です。内山完造は京都教会で洗礼を受けたクリスチャンでした。花甲録という自伝の最後に、内山完造は讃美歌を引用して、自分の歩みを振り返っています。「ほむべきかな主のみなこそ 今日まで旅路を守り給えり」。讃美歌1ー534番の歌詞です。

 神さまが私たちの生涯を守ってくださっている。神さまが私たちに良いものを備えてくださる。私たちが天に召されるときも、神さまが私たちと共にいてくださる。神さまをほめたたえて、私たちは歩んでいく。そういう讃美歌です。いつも私たちを見守り、私たちを祝福してくださる方がおられることを、私たちもこころに留めて歩んでいきたいと思います。

 イエスさまは、救い主がダビデ王のような偉い人から出てくるというような考え方がお嫌いでした。「良い家柄ですね」とか「えらい人がなんとかしてくれるんじゃないか」という考え方が、イエスさまはお嫌いでした。。またイエスさまはえらそうにする人たちのことがお好きではありませんでした。律法学者たちは周りの人たちが、自分たちのことを偉い人として接してくれることを望みました。

 世の中はお金持ちや律法学者たちのように、力のある人たちに目を向けがちです。どれだけ稼いでいるのかを示す長者番付のようなものあったりします。自分の力を誇示するために、律法学者たちのように長い服を着て歩いて回ったりする人たちがいます。上席に誰が座っているか、上座に誰が座っているかというような順位付けが気になるという社会であったりします。力ある人が注目をされるという世の中です。しかしそうした社会の中にあって、イエスさまは貧しいやもめを見ておられました。

 貧しいやもめを見ておられたイエスさまは、私たちのことも見てくださっています。私たちの悲しみや私たちの苦しみ、私たちの小さな努力を、イエスさまは見てくださっています。私たちの小さな良き業を、イエスさまは見てくださっています。私たちはイエスさまのまなざしのなかで生きています。

 神さまのお守りのなか、私たちはすこやかに年を重ねていきたいと思います。


2022年9月16日金曜日

2022年9月11日

 2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

 「轍(わだち)のように」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:28-34節

 大漢和辞典を編纂した諸橋轍次の名前の「轍」は「わだち」という意味です。父親の安平は、中国北宋の文豪蘇轍にあやかって、息子の名前を轍次としました。だれも「これはすばらしいわだちですねえ。りっぱなわだちですねえ」と誉める人はいません。しかしいい働きをしています。そのように謙虚な歩みをしてほしいという思いを諸橋轍次の父安平はもっていました。

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という律法学者の問いに対して、イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまは二つの掟が一つだと言われます。イエスさまの時代のファリサイ派や律法学者たちは、どちらかというと一生懸命に神さまを愛していたわけです。そして神さまを愛するがゆえに、人を裁いていました。神さまが与えてくださった律法を守ることができない人間は罪人だから裁かなければならないと思っていました。神さまを愛しすぎると、人を裁きたくなります。いまの世の中でも宗教的な原理主義者は神さまのゆえに人を裁こうとします。しかしイエスさまは罪人を愛され、そして神さまから愛されている人として、その人の隣人になられました。神を愛し、隣人を愛するということは決して切り離すことができないことなのです。

 信じて生きるということは、神さまの前に謙虚な思いになって生きるということです。私たちは自分の名誉であるとか地位であるとか、財産であるとか、この世で生活をしていると、そうしたもののことが気になることがあります。神さまの思いではなく、自分の思いが先に立ってしまうということもあります。自分が誉められたり、たたえられたりすることに気が向いてしまうこともあります。そして神さまの前に謙虚な思いであることを忘れてしまうことがあります。

 復活のイエス・キリストと出会った弟子たちは、イエスさまが歩まれた道を歩み始めます。それはあたかもイエスさまがその生涯を通して作られた「わだち」を歩んでいくかのようでした。イエスさまが残してくださった、神さまへと続くわだちを、弟子たちはそれることなく歩んでいったのでした。イエスさまがつくられたわだちは、地位や名誉に続く道ではありません。それは人から見れば、愚かな道であるかもしれません。しかしその道は、神さまへと向かう確かな道であるのです。私たちもまた、そのわだちを歩んでいきます。人は見てくれていなくても、神さまは見て下さっています。謙虚に自分らしく生きましょう。神さまは私たちの歩みを祝福してくださっています。


2022年9月10日土曜日

2022年9月4日

 2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

 「なぐらない。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:1-12節

 今年の9月1日は関東大震災が起こってから、99年の年でした。関東大震災のときに、日本で朝鮮人に対する虐殺が行なわれたと言われています。私たちの社会は暴力的な社会なのではないかと思え、怖くなります。いまなお、スポーツや学校という場に、意外に暴力というものが根強く残っているというようなことがあります。

 「ぶどう園と農夫のたとえ」は、どうしようもなく暴力的な話です。キリスト教の中では一般的に次のように解釈がされていました。ぶどう園の主人は神さまです。そしてぶどう園の農夫たちは、イスラエルの指導者たちです。そしてぶどう園に遣わされる僕は、預言者たちです。イスラエルの指導者たちは、神さまから遣わされる預言者たちの言うことを聞かず、をひどい目にあわせたり、また殺してしまったりします。そして最後に送られるのが、ぶどう園の主人の息子、すなわち神さまの御子イエスさまです。しかし神さまの御子であるイエスさまもまた、イスラエルの指導者たちによって殺されてしまいます。イエスさまは十字架につけられて殺されてしまいます。しかし神さまはイスラエルの指導者たちが捨てたイエスさまを隅の親石として用いられます。イエスさまが人々の罪をあがなってくださり、人々は神さまによって赦されるのです。

 イエスさまは暴力的なたとえを話されたわけですが、しかしイエスさまはそうした暴力的な社会の中にあって、暴力的な歩みを越えて、神さまの愛のうちを歩むことの大切さを、私たちに教えてくださいました。イエスさまはそのことをとくに、イエスさまの十字架と復活ということによって、私たちに示してくださいました。人々からののしられ、辱めをうけられ、イエスさまは十字架につけられました。しかしイエスさまは暴力で物事を解決することをなさいませんでした。

 私たちは神さまの愛のうちに生かされています。その愛を受けとめ、私たち自身が暴力的な解決を行なうことから避けて歩んでいきたいと思います。私たちの周りの小さな社会は、世界の有り様に結びついています。私たちが「なぐらない」という思いをもって生きていく時に、私たちの世界も「なぐらない」という社会になっていくのです。イエスさまの愛を知っている者として、愛でもってこの世を治めることを祈りつつ歩んでいきたいと思います。


2022年9月3日土曜日

2022年8月28日

 2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

 「自分の十字架を背負って」 桜井希牧師

   マルコによる福音書 8:27-35節

 最初の受難予告でイエスは弟子たちに、自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって殺され、三日の後に復活することを告げます。イエスは最後まで支配される人たち、不当な苦しみを受け、無念のうちに死んでいく人たち、言わば殺される側の人々と共に生きる道を選んだのでした。けれども弟子たちは、イエスが逮捕されるや否や、彼を見捨てて逃げ去りました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロも、大祭司の屋敷の中庭で「この人は、あの人たちの仲間です」と言われた時、彼は繰り返し「そんな人は知らない」と言ってその場から逃げ出しました。その姿は、私自身のこれまでの罪の数々を、どれほど人を裏切り、見殺しにしてきたかをいやおうなく思い出させます。

 受難物語は私たち自身の罪があらわにし、忘れようとしていたその罪を思い起こさせます。その度に私たちは悔い改めへと導かれながら、なおその罪と共に生きていくことが求められているように思います。罪を忘れることは神を忘れることになるのではないか。そうではなく私たちは、自分の弱さを自覚しているからこそ相手の弱さを受け入れることができ、自分が苦しいからこそ相手の苦しみに共感できるのではないでしょうか。罪は忘れるべきものではなく、自分と他者を和解させ、新しい出会いと生き方を示してくれる。これが赦されて生きるということではないかと思うのです。

 イエスはペトロに対する叱責に続けて、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言います。それは「今度はあなたの番なのだ」という励ましの言葉のように、私には思えます。イエスが生きたように、今度はあなたが生きていく番なのだと。そのようにして歩み出す時、自分の罪深さや弱さは相手を思いやる優しさとなり、相手の苦しみを共感する力へと変えられていく。そして、そのように生きることが自分にとって担うことのできる使命だと、私は信じたいのです。たとえその行く先が十字架の死であったとしても、「大丈夫、わたしはここにいる」と言って共に歩むイエスを信じて、これからも生きていきたいと思います。