2023年3月18日土曜日

2023年3月12日

 2023年3月12日 受難節第3主日礼拝説教要旨

 「十字架のもとに逃れる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 9:18-27節

 私たちは「何により頼んで生きているのか」という問いの前に立たされています。わたしを救ってくださる方はだれなのかという問いです。自分で自分を救うのか。地域が救ってくれるのか。また国家が救ってくれるのか。経済的なことであれば、自助・共助・公助ということが中心になるかと思います。しかし経済的なことだけで、私たちは生きているわけではありません。イエスさまが悪魔の誘惑に際して言われた、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということです。私たちはパンだけで生きているのではありません。パンだけで生きることはできないのです。本当の意味で、私たちを救ってくださる方はだれなのか。

 讃美歌21の「十字架のもとに」の歌詞の1番「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う。あらしふく時の いわおのかげ、荒れ野の中なる わが隠れ家」という歌詞は、作詞者であるエリザベス・クレーフェンの信仰をよく表している歌詞だと思います。エリザベス・クレーフェンは財産を売って貧しい人を助けるということをしていますから、そうした社会の抱える貧困や不条理ということについて、真摯に考え、行動する人であったのだと思います。しかしエリザベス・クレーフェンは、それだけでなく、自分の魂の問題、自分がだれによって守られて生きているのか。自分を救ってくださる方はだれであるのか。あなたがだれにも頼ることができず、周りの人たちもあなたのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、あなたが逃れていくところは、どこなのか。そのことをエリザベス・クレーフェンは、「十字架のもとに」という讃美歌の中で明らかにしています。

 守ってくださる方がおられるということは、とても安心なことです。ここに逃れればいいのだというところを知っているということは、とても安心なことです。それはクリスチャンに与えられている幸いだと、わたしは思います。悲しい時、さみしい時、行き詰まった時、ぼろぼろになったとき、私たちは逃れるところを知っています。「ああ、それ、いいな」と思われた方は、ぜひ、洗礼を受けてクリスチャンになっていただきたいと、わたしは思います。

 私たちを守り、導いてくださる、確かな方であるイエス・キリストがおられます。私たちはイエス・キリストを信じて歩みます。教会に集うお一人お一人の歩みが、イエスさまに守られて、健やかな歩みでありますようにとお祈りいたします。


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