2024年7月26日金曜日

2024年7月21日

 2024年7月21日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

「朽ちる食べ物のためではなく」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 6:22-27節

 フローレンス・ナイチンゲールは、イギリスの看護婦です。17歳のときに、「くだらないことがらに時間をむだに使うのではなく、私はなにかきちんとした職業とか、価値ある仕事がしたくてたまらない」と思います。ナイチンゲールは、「クリミヤの天使」とか「ランプの貴婦人」と讚えられた人ですが、「少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力、これこそが、ひとつの事業がしっかりと根を下ろし成長していくための地盤なのです」(長島伸一『ナイチンゲール』、岩波ジュニア新書230)と記しています。

 イエスさまは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われました。永遠の命に至る食べ物とはいったいなんでしょうか。それはヨハネによる福音書6章35節に書かれてあります。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。永遠の命に至る食べ物は、主イエス・キリストを信じることです。

 イエスさまは私たちに五千人の食べ物を与えるという奇跡を通して、いのちは天から恵みとして与えられているものであり、食べ物はわかちあうものであることをお示しになられました。そしてイエスさまは人々が助け合って、共に分かち合って生きていくことを、世の人々に示されました。イエスさまは朽ちるものではなく、永遠なるものにつながって歩みなさいと言われました。

 フローレンス・ナイチンゲールは上流階級の暮らしを望みませんでした。それは何も生み出さない朽ちる食べ物のような生活であったからでしょう。そうではなくナイチンゲールは、永遠の命につながる働きがしたかったのだと思います。

 環境破壊もテロも食糧も金融も労働条件もボーダレスの世にあって、私たちはもう一度、自分たちの生き方を考えなければならないときに来ているような気がします。私たちは神さまの御前にしっかりと生きるということを大切にしたいと思います。人頼みにしてしるしを求めたりするのではなく、自分がしっかりと小さいことでもいいから誠実に行なっていくことを大切にしたいと思います。「御国がきますように」と祈りながら、神さまから託されている小さなわざを誠実にコツコツと行なっていきたいと思います。神さまは私たちの歩みを見守り、祝福してくださっています。


2024年7月19日金曜日

2024年7月14日

 2024年7月14日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「この人のするままに」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 12:1-8節

 今日は「きてみて・れいはい」にいらしてくださり、ありがとうございます。

 わたしの好きな中国の笑い話に、「氷がにげた」という話があります。「南の国の、しょうしょう頭のたりない男が、北の国のおよめさんをもらった。あるとき、およめさんを自分の家において、ひとりで、およめさんの家に行って、はじめて、氷というものをくった。こいつはうまい、ひとつおよめさんにおみやげにしようと、そっと紙につつんで、ふところに入れて家に持って帰った。「おまえの里に、とてもおいしいものがあったので、おまえに食べさせたいと思って持ってきたよ」。ふところをさがして、氷をつつんでおいた紙ぶくろをとりだしたが、「おや、これは・・・・・・・。あいつめ、小便をしてにげてしまった」」(P90)(『中国の笑いばなし』、学燈社)。この男の人は、愚かだけれども、愛があります。わたしもできれば、「愚かだけれども、愛がある」世界に生きていたいと思います。

 「合理的ではないけれども、そこには愛がある」という話は、ほかにもあります。わたしがこの「氷がにげた」という話を読んで思い出した話は、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」という話です。

 マリアはイエスさまの足に高価な香油を注ぎ、髪の毛でその足をぬぐいました。それをみてイスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを叱り飛ばします。しかしイエスさまは「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。イエスさまはマリアに対して、「何かもっとふさわしいものを」とか、「常識的な役に立つことを」というふうに言われませんでした。

 イエス・キリストは私たちに「この人のするままにさせておきなさい」と言ってくださっています。イエス・キリストは私たちが、「りこうであるから、役にたつから、配慮があってすばらしい人であるから」、私たちを受け入れてくださるのではありません。また「もう少しりこうになったら、もう少し役に立つことができるようになったら、もう少し配慮を身につけなさい」と言っておられるのでもありません。「この人のするままに」、「あなたをそのままで受け入れているんだよ」というふうに言っておられます。

 私たちは「この人のするままに」というイエスさまの温かい言葉に支えられながら生かされています。


2024年7月12日金曜日

2024年7月7日

 2024年7月7日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「イエスさま、す・て・き」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書5:19-36節

 夢のなかで自分がいやなことをしてしまい、夢から覚めて、「ああ、夢でよかった」というふうに思うことがあります。しかし夢のなかとはいえ、自分のなかの良くないことが、まざまざと現れるということですから、なんとなく意気消沈してしまいます。良き人として生きられない自分に出会うということです。イエスさまを信じ、イエスさまに従って歩もうと思いつつも、イエスさまの御心に反したことをしてしまう。しかしそうしたどうしようもない自分がいるからこそ、イエスさまのことがとてもすてきな方だと思えるのでしょう。

 イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心に従って歩まれる。神さまの御心に従って、私たちの罪のための十字架についてくださり、私たちを救ってくださる。イエスさまは自分のことを誇ることなく、謙虚に神さまに従って歩まれる。ヨハネによる福音書はそのようにイエスさまのことを記しています。

 フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という表題のついた聖書の箇所があります。この「キリストを模範とせよ」という箇所には、初代のクリスチャンたちがイエス・キリストはこんな人だったと言い表している信仰告白が使われています。フィリピの信徒への手紙2章6ー11節の御言葉です。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 イエスさまは本当にすてきな方だと思います。「イエスさま、す・て・き」。初代のクリスチャンたちもまた、そのような思いをもって、イエスさまに付き従っていったのだと思います。

 すてきな方が、私たちを導いておられます。神の御子が私たちのところにきてくださり、私たちと共に歩んでくださいます。その恵みに感謝をして、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。


2024年7月5日金曜日

2024年6月30日

 2024年6月30日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「イエスさまの言葉に希望を置く」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:43-54節

 いまNHKの朝の連続テレビ小説は「虎に翼」です。ドラマの中ではなんども日本国憲法第14条が出てきます。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。戦後、日本国憲法が施行されたとき、多くの人々はそのような社会ではないけれども、そのような社会になってほしい、そのような社会を作っていくのだという思いをもって、戦後の苦しい時期を歩みました。

 イエスさまは役人の息子を癒やされます。役人はイエスさまが言った「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」という言葉を信じて、カファルナウムに帰ります。役人はただイエスさまの御言葉を信じて、帰っていきます。イエスさまの言葉を信じよう。イエスさまが必ず、息子をいやしてくださる。その途中に僕たちに出会い、イエスさまがそのように言われた時刻に息子が癒やされたことを聞きました。

 ヨハネによる福音書では「見ないで信じる」ことの大切さが記されている聖書の箇所がほかにもあります。「イエスとトマス」(ヨハネ福音書20章34節以下)の物語です。うたがい深いトマスに、イエスさまが言われます。【イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」】。

 いつの日か、神さまの御心が実現する。アメリカの公民権運動の指導者でありました、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、その思いを、I have a dream that one day.「わたしには夢がある」という言葉で言い表わしました。キング牧師、「いつの日か」と言います。「いつの日か」ですから、それはいま叶っているということではないのです。しかしキング牧師は、演説の終わりを、「ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝する。われわれはつい に自由になったのだ!」という言葉で終わります。いま叶っているわけではないけれども、神さまがおられるのだから、それは必ず実現するのだという信仰です。

 私たちもまたそのように信じています。そして祈ります。神さま、私たちはあなたにより頼んで生きていきます。どんなことがあったとしても、神さま、あなたが私たちに良きものを備えてくださり、私たちを導いてくださることを信じています。神さま、私たちはあなたの御言葉を信じて歩みます。どうかあなたの国が来ますように。私たちをあなたの愛で満たしてください。