2025年2月28日金曜日

2025年2月23日

 2025年2月23日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

「わたしもイエスさまにほめられたい。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 15:21-31節

 「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが、一時期、よく言われていました。わたしも「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが言える時代に育ちたかったなあと思います。

 イエスさまはティルスとシドンの地方に行かれ、そこでカナンの女性に出会います。カナンの女性は病気の娘をいやしてもらおうと、イエスさまにお願いをします。しかしイエスさまからやんわりと断られます。カナンの女性があきらめることなく、一生懸命に、そしてとんちをきかせて、イエスさまに頼み続けたので、イエスさまは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。そして女性の娘の病気は、イエスさまによっていやされました。

 カナンの女性も、ユダヤの群衆たちも、「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていました。病気の娘をいやしてもらいたい。隣に住んでいる足の不自由な人をいやしてもらいたい。目の見えない友だちが見えるようになってほしい。体の不自由な義理の娘が、歩けるようになってほしい。自分が病気であるわけではないけれども、「つらい思いをしている人を助けたい」。そうした思いをもっていた人たちは、イエスさまが病気の人や体の不自由な人が癒やされるのをみて、神さまを賛美したのでした。

 イエスさまはカナンの女性のどんなところをほめられたのかが、気になるかも知れません。わたしは、それは「カナンの女性がおもしろいことをいったから」だと思いますが、ですからみなさんに「カナンの女性のように、みんなおもしろいことを言う人になりましょう」というお話をするわけにもいきません。しかしカナンの女性がなにかしたから、イエスさまがほめられたということよりも、ただイエスさまがカナンの女性をほめてくださったということのほうに、わたしは大きな意味があると思います。イエスさまはしんどい思いをしているカナンの女性をほめてくださったように、しんどい思いをしている私たちをほめてくださる方なのです。イエスさまは小さき者たちを顧みてくださる方なのです。私たちの悩みや苦労を知っていてくださり、私たちをほめてくださる方なのです。

 いまもイエスさまは一生懸命に生きておられるみなさん、ひとりひとりをほめておられます。「あなたの信仰は立派だ。安心していきなさい」。そんなイエスさまに導かれて、神さまの愛のうちを、私たちも歩んでいきたいと思います。


2025年2月22日土曜日

2025年2月16日

 2025年2月16日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

「ここにいますよ〜イエスの神殿」 俣田浩一牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 イエスは神殿から商人達を追い出します。でも境内で売り買いされていた牛や羊や鳩は捧げもの用でした。遠くから来る巡礼者達は、牛や羊を連れて旅する分けには行きません。身軽に旅をして、捧げ物は神殿で買うのです。また神殿では献金用のユダヤの伝統的な貨幣に交換する必要がありました。そのために両替人が境内にいたのでした。ですからこれらの商売は必要でした。イエスはそれを破壊したのでした。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」ユダヤ人達はすぐに反応します。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか。」それに対してイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言います。しかし建てるのに四十六年もかかった神殿を、あなたは三日で建て直すのかと、ユダヤ人達はまた不審に思います。しかしイエスが言う神殿とは御自分の体のことでした。つまり死と復活のことでした。するとなぜイエスはそれを言うために神殿にいる商人達を追い出したのでしょうか。

 過越祭の「過越」はギリシア語で「パスカ」、これはあるものから別のものへと変わるという意味の言葉です。別のものに変わるということは交換が可能ということです。それはお金とも交換可能です。つまり商売です。物はお金と交換されます。価値の交換である商売を神殿でしていた。イエスはどうもそれが気に入らなかったようです。価値の交換をしてはならない、商売をしてはならない。それはなぜか。イエスにとって、神殿、父の家とは交換出来ないものを扱うところだったからです。交換できないもの、それは神から与えられたいのちです。十字架の死からの三日後の復活に顕される、神から与えられた永遠のいのち。「建て直す」という言葉は「よみがえる、復活する」と同じ言葉です。死と復活に示される私達を創られた神との根源的な関係は、何を持ってしても交換できない、かけがえのない関係なのだと。そのことを扱う場所が神殿だと。イエスはそれを言おうとした。そしてそれを行動で現したのではないかと思います。結果的にはこの行為がイエスを十字架の死へと招きました。神から与えられたいのちは何を持ってしても代えられないもので、死に勝利する復活の永遠のいのちだと、イエスは自らの命を持ってそのことを伝えたのでした。


2025年2月14日金曜日

2025年2月9日

 2025年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「すなおにおなり」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 5:1-11節

 この聖書の箇所はイエスさまの弟子たちの召命物語です。しかしどうして弟子たちはこうも素直に、イエスさまにつき従うことになったのでしょうか。「すべてを捨てて」イエスさまに従うようになったのでしょうか。わたしは弟子たちが、暗い湖を見つめながら、自らの心の深淵に思いをはせる、自分の罪を深く顧みることがあったからだと思います。弟子たちは暗い湖をみつめるという日常の生活の中から、イエスさまの御言葉に出会ったのです。

 ペトロたちは「夜通し苦労する者」だったのです。ペトロたちは貧しい漁師として生きていました。夜通し苦労しても、何もとれないことがある。食べていかなければならないのに、食べていくための魚は十分には得られない。貧しさの中で、互いに口論することもあったでしょう。「あいつが悪いから、漁がうまくいかなかった」「なんであいつはいつもいばってるんだ」「ちゃんとだんどりをやっとけよ」「なんだその言葉遣いは」。そんなことが私たちの日常生活と同じように起こっていただろうと思います。

 そして暗い海をみつめながら、自らのことを思うのです。「なぜ自分はもっと思いやりのある言葉をかけることができないのだろう」「みんな貧しくて苦労しているのに、自分のことだけ考えて、うまくたちまわるのだろう」「どうして仲間のたらないところを、心優しくおぎなっていくということができないのだろう」「なぜいつもいらいらいらいらして、互いに傷つけあっているのだろう」。暗い夜の湖をみつめながら、正しく生きられない自分の罪を顧みていたのです。「神さま、わたしはほんとうにあなたから祝福されているのでしょうか」「神さま、わたしはあなたから愛されているのでしょうか」。暗い湖のうえ、舟に揺られながら、自分の揺れるこころと向き合っていたのだと思います。

 夜の暗闇の湖に揺られながら、自らの魂の深淵をみつめていたペトロやヨハネやヤコブは、イエスさまと出会い、イエスさまについていきました。私たちもまた罪と暗闇の湖に揺れながら、迷い、傷つき生きている者です。そんな私たちをイエスさまは「恐れるな」「そのままでいいんだ」「素直になりなさい」と招いてくださっています。イエスさまの招きに応え、イエスさまにつきしたがっていきましょう。


2025年2月8日土曜日

2025年2月2日

 2025年2月2日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「ほっとできるところがいいよね。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 21:12-16節

 2年ほど前、長野市の公園が閉鎖になるというニュースがありました。住宅街にある公園で、日中は保育園児が、夕方は小学生たちが多数訪れて遊んでいた公園でした。公園の閉鎖が残念と感じる人もいるでしょうし、静かになってほっとすると感じる人もいるでしょう。なかなか解決のむつかしい問題です。

 いろいろな人が事情を抱えた人が、教会に集ってきます。集う人が安心してくることができるということは、とても大切なことだと思います。当り前のことですが「怒られた」ということを経験すると、やはりその場所から足が遠のいてしまいます。しかし互いに思いやりを大切にして、みんながほっとできる教会でありたいと思います。

 政治哲学者のマイケル・サンデルは、朝日新聞のインタビューのなかで、「公の場の再構築」「多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう」と言っています。みなさんは「多様な階層の人が交ざりあう公の場」と言われて、何を思い浮かべられますか。わたしは、それはまさに「教会」という場だと思いました。これからの社会の中で、「多様な階層の人が交ざりあう公の場」としての「教会」の果たす役割というのは、とても大きなものだと思います。

 教会ではどの人も、神さまの前に立つ一人の人です。その人が社会的にどのような地位にあっても、どのような仕事をしていても、女性であろうと、男性であろうと、あかちゃんであろうと、壮年であろうと、みんな神さまの前に立つ一人の人であるのです。そしてみんな礼拝に集い、神さまをほめたたえるのです。教会は社会の緩衝材としての大切な役割があるのだと思います。

 祭司長たちや律法学者たちは、自分の都合の悪い人たちに対して、腹を立てていました。こどもがイエスさまのことを「ダビデの子にホサナ」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言うのを聞いて、腹を立てていたのです。それに対して、イエスさまは「子どもたちが自由に語ることができるようなところでないと、その場所は神さまから祝福を受けた場所とは言えないよ。聖書にも、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』と書いてある」と言われました。

 対立の多い社会の中にあって、私たちは安心して集うことのできる場所としての教会の歩みを大切にしたいと思います。教会がほっとできる場所となる。また教会に集う私たちが、世の人に対して、ほっとできる人になることを、心がけていきたいと思います。