2025年2月8日土曜日

2025年2月2日

 2025年2月2日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「ほっとできるところがいいよね。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 21:12-16節

 2年ほど前、長野市の公園が閉鎖になるというニュースがありました。住宅街にある公園で、日中は保育園児が、夕方は小学生たちが多数訪れて遊んでいた公園でした。公園の閉鎖が残念と感じる人もいるでしょうし、静かになってほっとすると感じる人もいるでしょう。なかなか解決のむつかしい問題です。

 いろいろな人が事情を抱えた人が、教会に集ってきます。集う人が安心してくることができるということは、とても大切なことだと思います。当り前のことですが「怒られた」ということを経験すると、やはりその場所から足が遠のいてしまいます。しかし互いに思いやりを大切にして、みんながほっとできる教会でありたいと思います。

 政治哲学者のマイケル・サンデルは、朝日新聞のインタビューのなかで、「公の場の再構築」「多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう」と言っています。みなさんは「多様な階層の人が交ざりあう公の場」と言われて、何を思い浮かべられますか。わたしは、それはまさに「教会」という場だと思いました。これからの社会の中で、「多様な階層の人が交ざりあう公の場」としての「教会」の果たす役割というのは、とても大きなものだと思います。

 教会ではどの人も、神さまの前に立つ一人の人です。その人が社会的にどのような地位にあっても、どのような仕事をしていても、女性であろうと、男性であろうと、あかちゃんであろうと、壮年であろうと、みんな神さまの前に立つ一人の人であるのです。そしてみんな礼拝に集い、神さまをほめたたえるのです。教会は社会の緩衝材としての大切な役割があるのだと思います。

 祭司長たちや律法学者たちは、自分の都合の悪い人たちに対して、腹を立てていました。こどもがイエスさまのことを「ダビデの子にホサナ」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言うのを聞いて、腹を立てていたのです。それに対して、イエスさまは「子どもたちが自由に語ることができるようなところでないと、その場所は神さまから祝福を受けた場所とは言えないよ。聖書にも、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』と書いてある」と言われました。

 対立の多い社会の中にあって、私たちは安心して集うことのできる場所としての教会の歩みを大切にしたいと思います。教会がほっとできる場所となる。また教会に集う私たちが、世の人に対して、ほっとできる人になることを、心がけていきたいと思います。

 

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