2025年5月4日 復活節第3主日礼拝説教要旨
「ここにソロモンにまさるものがある」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 12:38-42 節
人は何か確かに見えるものを求めようとします。まあ何か形があれば、安心できます。しかしいまはほんとうに簡単に映像もあったかのようにつくることができるようになりました。1945年8月16日の毎日新聞の一面は、「皇居二重橋前広場で土下座する人々」という写真が載っています。この写真は合成写真だそうです。
イエスさまがよみがえられたことを信じられなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。まあそれでイエスさまはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われてしまいます。「見ないで信じる人は、幸いである」というのは、「ただ」信じるということです。
基本的に、信仰というのは、二つの「ただ」でなりたっています。使徒パウロは信仰義認ということを言いました。信仰義認というのは、何かをしたから救われるというのではなく、「ただ」信じることによって、救われるということです。神さまも私たちに「・・・してくれたら」とは言われないのです。「律法を守ってくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、神さまは言われませんでした。「りっぱなことをしてくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、言われませんでした。私たちが救われるのは、神さまの憐れみによって救われるのです。いわば、私たちが救われるのは、「ただ」で救われるのです。こんなふうに、信仰の世界というのは、基本的に、「たら」の世界ではなくて、「ただ」の世界であるのです。「ただ」で救われたのだから、「ただ」信じるのです。「・・・してくれたら」の「たら」の世界ではなく、「ただ」信じるという世界に、私たちは生きているということです。
イエスさまは私たちに与えられるしるしは、ヨナのしるしだけであると言われました。ヨナのしるしというのは、イエスさまの十字架と復活の出来事です。三日三晩、大魚のお腹の中にいたヨナのように、イエスさまも十字架につけられて葬られ、三日目に甦られるということです。そしてイエスさまのことを信じて、神さまの前に悔い改めて生きていく。このことが大切だということです。
イエスさまは言われました。「ここに、ヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」。ヨナにまさる方が、ソロモンにまさる方が、私たちと共にいてくださるのです。イエスさまを信じて、イエスさまと共に歩みましょう。
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