2026年10月18日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨
「何でもよいから幸いな人になろう」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 5:1-12節
小川忠『逆襲する宗教 パンデミックと原理主義』(講談社選書メチエ)には、世界のいろいろなところで、いろいろな宗教の宗教回帰が起こっていると書いてあります。なんとなくじんわりと、社会全体が、やはり神さまの前に立ち、神さまの祝福を受けて生きていくことの大切さを感じているのではないかと思います。そうしたなかで、私たちクリスチャンが神さまから祝福を受け、神さまに依り頼んで生きていることを伝えていくということは、とても大切なことだと思うのです。
マタイによる福音書5章ー7章は、「山上の説教」と言われる聖書の箇所です。イエスさまの特に大切な教えが、この山上の説教という形でまとめられています。
「幸い」という表題のついた聖書の箇所は、いろいろな人々について「幸いである」ということが言われます。そして最後は「義のために迫害される人々は、幸いである」と言われています。幸いだと言われている人々を、自分に当てはめていくと、「ちょっとこれはわたしはできないなあ」という思いもあります。柔和になれと言われてもなあ、憐れみ深くなれといわれてもなあ、義のために迫害される人々になれと言われてもなあと思います。
もちろん、イエスさまがすすめてくださっている事柄ですから、いいことに決まっているので、イエスさまのお気持ちにそって歩んでいければ良いと思います。でもまあ私たちは人間ですから、完璧なものを求めていくということもまたなかなかむつかしいわけです。
私たちはひとつひとつの事柄を、自分にあてはめて、「わたしはだめな人間だ」と思うよりも、神さまが私たちを幸いへと導いてくださっているということを大切にしたいと思います。「心が清くないからだめだ」「平和を実現する人でないからだめだ」「義のために迫害されるような人ではないからだめだ」ということではないのです。そうではなく「神さまが私たちを、幸いへと招いてくださっている」ということが大切なのです。
私たちはみな幸いな者へと招かれているのです。ですから私たちは「何でもよいから幸いな人になればよいのです」。神さまが私たちを幸いへと導いてくださっていることを信じて、神さまの民として歩んでいきたいと思います。そしてわたしにできる小さな良き業に励みたいと思います。「あなたは、幸いである」という神さまの大いなる祝福の中を歩んでいきましょう。
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