2018年11月14日水曜日

2018年10月28日

2018年10月28日 降誕前第9主日礼拝説教要旨
  「空しさの向こう側」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 12:13~21節
 教会暦が聖霊降臨節から降誕前節となりました。クリスマスまで9週間を控え新しい節目の日曜日です。イエスの誕生を覚えるクリスマスに向けて、事務的実務的な準備も始まっていますけれども、私たちの祈る心も9週間かけて準備できればと思います。先日、23日から25日と教団総会が行われ部落解放のアピールで私も参加させていただきました。歴史の中で様々な問題、様々な痛みを抱えていますが心の通った話し合いが出来ますよう祈りたいと思いました。
 さて今日の聖書箇所は、あるお金持ちのたとえ話が語られています。ある豊作の時に今まで使っていた蔵を壊しさらに大きな蔵をつくり、作物を蓄えたのでした。しかし神はその人がその日で死んでしまうことを知っていたのでした。死んでしまうのにその富をどうするのか、イエスはそう語りかけるのです。聖書が書かれた時代から時が流れ21世紀に私たちは生きています。しかしこの時に語られた「豊かさ」より数段上の豊かさの中で私たちは生きています。
 ここで語られているお金持ちの人のように、私たちも貯金をします。不景気をはじめ不安定な時代にあって、私たちを襲う不安をお金は解決してくれます。さらに今日の社会は様々な場面でお金が必要になります。道を歩いていて急に何かが食べたくなるようなときもありますし、急な事故や病気など、様々な場面でお金が必要になります。お金は大事というわけですがお金がなければ住む場所も食べる者も着るものも手に入りません。お金がなければ生きることを許されないような社会に生きています。しかし聖書の中では「豊かさ」に対して注意を促しています。金銭的、肉体的な豊かさは神を忘れてしまう。神から与えられた命の大切さに忘れてしまうというのです。
 将来の不安は上げだすときりがありません。私たちは何が不安の原因なのかわからない、言いようのない不安に追われているのではないでしょうか。そんな中で神から与えられた命の大切さに忘れてしまっているのではないでしょうか。今日、この日に私たちが向き合わなけらばならないものに目を向けよ、とイエスは語っておられるのではないでしょうか。

2018年11月6日火曜日

2018年10月21日

2018年10月21日 聖霊降臨節第23主日礼拝説教要旨
  「絶妙ブレンド」 横山順一牧師
   創世記 11:1~9節
 四月に天に召された榎本てる子さんは、生前「ブレンディング・コミュニティ」を作る夢をたびたび語っておられた。性をはじめ様々な立場の人間が「混ぜあわされた」豊かな多様性の社会を目指したてる子さんの夢に賛同する。ちなみに沖縄の踊り「カチャーシー」も、混ぜるという意味。
 かつていた教会でいただいたブリューゲルの「バベルの塔」のパズル絵を眺めていて、ふと、塔の下で鞭打たれ働かされている庶民の姿から気づかされた。つまりそのような強制・強要をしないと塔の建設は不可能だということ。
 テキストはニムロドが建てたバベルの塔の箇所。「有名になりたい」という願望は誰にもあろう。しかし実際にできる人は限られる。基本的にそれは「権力者」ではないか。口語訳ではニムロドは「地上で最初の権力者」だと訳される。
 「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(1節)とあるが、戦時中の日本が他国の言葉や文化を奪う同化政策を推進したのと同様を示している。そうでなければ戦争という塔の建設ができなかった。
 神が怒りをもって塔を壊されたのは当然の結末だった。神がなさったのは混乱のためではなかった。バラルにはごちゃ混ぜという意味がある。無理に一つとされた民たちに、それぞれの言葉を使い、それぞれ自由に生きて良いという神からの示し。また違うが故に、互いに聞き合わねばならないという神の思い。それがバベルの塔の物語の骨子だろう。
 弟子たちがそれぞれの言葉で語り出したという使徒言行録のペンテコステの出来事も、それぞれが自由に語って良い、語るべきという神の愛の思いを示している。
 ごちゃ混ぜとは、無造作なバラバラを意味しない。神の配慮に満ちた絶妙なブレンドである。聖書は、太古から多様性の大切さを記していた。

2018年10月29日月曜日

2018年10月14日

2018年10月14日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨
  神学校日礼拝 「田舎者の涙」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 14:66~72節
 高校時代、推薦の枠が余っていたので神学部に進むことにしました。その頃の私は、キリスト教はあまり好きではありませんでした。そして、ボランティアというものも好きではありませんでした。そんな私に当時の聖書科の先生に、夜の10時から1時間、京都駅を歩き野宿しておられる方に声をかける「京都夜回り」に参加してみなさいと言われました。個人的にはあまり気の進まないまま参加し、一度行ったらそれで終わろうと思っていたのですが、最後に「来週も来るやんな?」と聞かれました。どう断っていいかわからず「はい」と言ってしまい。それから大学にいる間は夜回りに参加するようになりました。振り返ってみると、夜回りは受洗するきっかけとなり、教職を志すきっかけにもなりました。ボランティアもキリスト教もあまり好きではありませんでしたが、次第に様々なことに関わるようになりました。大学にいた間、私が持っていた意思や計画の多くは打ち砕かれたのでした。
 命が危険になってもイエスに従う(31節)と言ったペトロでしたが、汚い言葉まで使ってイエスの弟子であることを否定しました。イエスが逮捕された後は、隠れながらもイエスの後についていきましたが(54節)、いざ弟子であることを追及されると嘘をついてしまったのです。頭では信じていても体が逃げてしまったのです。都会の真ん中で、言葉のなまりのせいで田舎のガリラヤから来たこともばれ、追及されたペトロはイエスの言葉を思い出し最後には身を投げ出して涙を流しています。この物語では、人間の不安定な意思、どんな状況でも揺るがない神の意思が描かれています。
 今日の社会を見ていると閉塞感が漂う中で完璧主義が貫かれているような気がします。社会学者の岸政彦さんはコラムの中で「果てしなく不寛容に、完璧主義に、一切のミスを許さない社会になるほかないのだろうか」と語っておられました。私たちが求められる完璧主義は人間の意思であることを忘れてはいけません。イエスを信じるというペトロ(人間)の意思は無残に打ち砕かれました。しかしそれを知ってなお、イエスは「先にガリラヤに行く」と語ったのでした。私たちの意思はいつ砕かれるかわかりません。しかし、打ち砕かれたその先に、涙のその先にイエスは待っておられるのです。

2018年10月21日日曜日

2018年10月7日

2018年10月7日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨
 【世界聖餐日・世界宣教の日 讃美礼拝】
   「歌い続ける歌」 桝田翔希伝道師  聖餐式:横田法子牧師
     詩篇 40:1~7節 マタイによる福音書 26:26~30節
 チャペルコンサートに引き続き、讃美礼拝を守ることが出来感謝であります。私たちは教会で讃美歌をはじめ様々な音楽を通して聖書や神と触れ合います。一方聖書の中には詩篇と呼ばれる部分があります。詩編に関してはわからないことも多いのですが伴奏をつける歌であったことが想定さていれます。このことから音楽を通して神に触れるということはとても昔から続けられてきました。今日の礼拝では、説教を通して聖書に聴く場面が強調される傾向があるかもしれません。説教と言うと、言葉ではっきり語りますから「客観的なもの」と言えるかもしれません。一方、音楽を通して神に触れるということは「感性的なもの」ということが出来るのではないでしょうか。
 11月7日は教団により「世界聖餐日・世界宣教の日」と定められています。世界聖餐日が定められたのは1940年代、様々なキリスト教の教派の連合により呼びかけが始まりました。1940年代ですから世界中で戦争が起こり、平和を願いながらも恐怖や嫌悪、悲しみが渦巻いていた時代であったことが想像されます。そんな時代にあって、平和を願いキリスト教の様々な教派を越えてイエスの食卓・聖餐式を共に行い祈るためにこの日が定められたのです。
 平和を願いながら、讃美礼拝を守るこの日にあって、聖書は私たちに何を問いかけているのでしょうか。当時イエスと敵対していた人たちに対して、イエスの語り方は非常に含みを持ったものと言えるかもしれません。断罪するでもなく、質問に質問で答える。客観的と言うよりも、感性的なものとも言えるかもしれません。私たちは平和を願いつつも泥沼に足を突っ込んだように、もがきながらも、他人を言葉で客観的にさばいているかもしれません。しかし、イエスは危機的な時に讃美歌を歌いました(マタイ26:30)。客観的な破れのない言葉ではなく、感性を共にするような新しい歌を口ずさみながら平和を願う者でありたい。

2018年10月15日月曜日

2018年9月23日

2018年9月23日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨
  「勝利の入城」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 19:29~44節

 イエスの公生涯は、3年半続きました。公生涯の終わりに近づき、イエスはメシアとしてエルサレムに入城され、日曜日の午後に入城され、金曜日に十字架にかけられます。今、この入城される時、非常に緊迫した状態です。イエスはこの入城に際し、子ロバに乗ることをのぞまれます。それは旧約聖書ゼカリア書9章9節の「彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ロバに乗って来る――」この預言が成就されなければならないので、イエスは、子ロバを必要とされたのです。イエスのエルサレム入城は、民衆、弟子達の思いは、勝利の王として、メシア的王国が出来上がることを期待していますが、イエスの思いは、十字架にかかることによって、自分を全人類の救いの為、贖いの業のために、父の御心が成就されるために、入城されるのであり、父なる神に御自分をささげられた勝利者として入城されるのです。大きな開きがあります。弟子達が「ホサナ」(どうぞわれらを救って下さい)という叫びに、パリサイ人達は抗議します、「イエスがメシアであるという叫びは、神への冒涜だ。」と思ったからです。イエスは答えられます「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言って、メシアとして迎えるのは当然だと、おっしゃいます。かたくなな、リーダたちの姿を見て、エルサレムに近づき、都が見えた時、大粒の涙を流され、声をあげて泣かかれた。イエスはすべての人を救いたいと思っておられました。イエスを拒否したエルサレムは紀元70年ローマ軍によって崩壊します。イエスは愛に満ちた方です。私たちは、社会の問題も、教会の問題も、家庭の問題も、みんな、神様にしていただかなければ、出来るものではありません。そのためには、ただひたすら神様の言葉を聴く、という生活をしなければなりません。神の言葉を聴いて慰められまた励まされ、また召し出されていくところに私たちの生活があります。

2018年10月1日月曜日

2018年9月16日

2018年9月16日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨
 「どこにもいかんといてね~共におられる神さま」 小笠原純牧師
  マタイによる福音書 28:16~20節
 本日は、敬愛する平安教会の皆様と、礼拝を守ることができ、とてもうれしく思います。
わたしの母はアルツハイマー認知証で、18年前に天に召されました。わたしの父は長い間、その母の介護をしました。わたしはこの10数年間の、父と母の生活を見ながら、なにか大きなことをなし得るということよりも、誠実に人生に向き合って、目の前にいる大切な人とともに、精一杯生きていくということに、人生のかけがえのなさというものがあるような気がしました。
 わたしが帰省したとき、父と母と三人で川の字になって寝ていると、夜中に母が目を覚まして、起き上がって、こう言いました。「おとうさん、どこにもいかんといてね」。母はだんだんと記憶がなくなってきて、何もできなくなっていくのです。記憶がなくなるわけですから、みんな自分を置いて、どこかに行ってしまうような気持ちになるのでしょう。父は「どこにもいかんから、さあおやすみ」と言いながら、起き上がっている母を寝かせてあげていました。
 わたしは折にふれてこの小さな出来事を思いだします。そして父が「どこにもいかんから、さあおやすみ」という言葉の通り、母が帰天するときまで母と共にいたこと。そして「共にいる」ということの大切さ。また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という御言葉の確かさを思い起こします。神さまは確かに、記憶がなくなり恐れと不安の中にあった母と共にいてくださいました。
 人生の中で、私たちはいろいろな出来事に出会います。とても悲しい出来事に出会うときもあります。とてもつらい出来事に出会うときもあります。そんなとき、だれか、わたしのそばにいてほしいと思えます。そばにいる人に「どこにも行かないでね」「どこにもいかんといてね」と言いたいときがあります。
 聖書は私たちに告げています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。イエス・キリストは私たちに約束してくださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。私たちの救い主であるイエスさまは、どんなときも私たちと共にいてくださいます。私たちはこのことを信じています。どんなときも、私たちと共にいてくださる、イエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきましょう。

2018年9月25日火曜日

2018年9月9日

2018年9月9日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨
  「身の回りに」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 14:1~9節
先日、テレビが4Kの最新式になり、あれこれ録画できるようになりました。そんな折、相模原障害者施設殺傷事件を扱った番組がありました。その中で、小児科医である熊谷晋一郎さんが今日の社会を「だれもが自分がどれほど能力があるのか証明しようと躍起」になり「自分に能力があることを証明するために他人の能力のなさを見つける社会」と説明されていました。
さて、今日読んでいただきました聖書箇所はイエスを殺そうとする緊迫した状況で始められています。そこに女性が突然入ってきて非常に値段の高い油をイエスにかけ、弟子たちはそれを強く非難しました。私たちの価値観からすれば7500人分の食事を用意できる価値に当たるような油を、イエスにかけるという行為はなかなか賛成できるものではありません。貧しい人たち困っている人たちを助けなさいともありますから、弟子たちが怒った理由は一方では間違ったものではありません。
イエスにとって香油をかけられた瞬間は、緊迫した状況で「受難」が理解された瞬間でありました。しかし受難がわからない弟子たちにとっては、「間違った行いをする女性を見つけた」瞬間であったのではないでしょうか。この女性を批判した弟子たちの姿は、競争社会で生きて他人より上に立とうとする人間の姿が映し出されているのかもしれません。そしてイエスは続けて、貧しい人たちに施せと言うがいつでもできるではないか、と語っています。弟子たちは今までどのようにしてイエスにつき従っていたのでしょうか。困っている人を目の前にしつつも癒すことが出来ず、律法学者との議論に熱中してしまうこともありました。
ここでイエスは様々な事を指摘しますが、その中で弟子たちの姿だけを見るならば、私たちと重なる部分があるように思うのです。私たちは様々な視点を持つ社会に生きています。そして競争社会と言われる厳しい社会で生き、相手の出来ない部分を見つける、批判することで自分の能力を優位にすることに陥っているかもしれません。しかしイエスは、施しはしたいときに出来ると語るのです。身の回りをよく見なさいと語るのです。