2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨
「すなおにごめんって言えますか。」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 5:21ー26節
保育園の園長をしていたとき、ときどき園児のいざこざの仲裁をするというようなことがありました。両方の園児の言い分を聞いて、仲裁をするわけですが、いざ悪かったほうが「ごめんね」と言う段になると、「ごめんね」ということに納得せず、まだまだ仲裁は続くというようなこともあります。小さい子どもでもやっぱり「ごめんね」というのは大変なのかと思ったことがありました。
イエスさまは争いごとを解決することについて、たんに律法や法律に書かれてあることを行なうだけで良いということだけでなく、人の内面を問題にされました。法律において裁くのであれば、「殺すな」ということで、殺していないのであれば、それで良いわけです。しかしイエスさまは人の内面を問題にされ、「あなたのなかにあるその憎しみとか怒り、裁かれることがないのであれば、殺してやりたいと思うその気持ちはどうなのだ」と問われました。そして「バカ」とか「愚か者」と言う者も、火の地獄に投げ込まれるのだと、イエスさまは言われました。
船橋洋一は、【国を愛することは、日本と日本の過去を美化することではない。和解とは究極的には、それぞれの個人の心からしみ出す悔悟と、心からにじみ出る赦しの交差するところに生ずる潤いを必要とする営為であるに違いない。・・・。自分たちがどのような国民でありたいのか、日本をどんな国にしたいのか、後世、私たちはどのような民族として記憶されたいのか、という志の領域の話である】(あとがき『歴史和解の旅』)と言っています。
「すなおにごめんって言えますか」と言われますと、「まあ、言えないなあ」と思います。「なんでわたしがあやまらなければならないんだ。あいつのほうが悪いじゃないか」と思えます。たしかにあいつも悪いのです。ただあいつもわたしも、神さまの前では、欠けたところの多い、おろかな人間なのです。互いに責め合うのであれば、欠けたところが多いわけですから、責めるところはたくさんあるでしょう。しかしそうした欠けたところを持ちつつ、わたしもあいつも、神さまにとっては大切な大切な一人であり、また一人の罪人であるのです。
私たちは神さまを信じる者として、互いに欠けたところのある者ことを受け入れつつ、歩んでいきたいと思います。神さまの前で、すなおに悪かったことを悪かったと認めて、健やかに歩んでいきたいと思います。
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