2022年7月29日金曜日

2022年7月24日

 2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

 「はっきりと見える人に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 8:22-26節

 わたしには大切にしている特別のうちわがあります。それは夏の暑い日に、妻がわたしにくれたうちわです。このうちわは、「絵が飛び出す!!、ステレオグラムうちわ」です。はじめは見えないのですが、やっているうちに見えない絵が、飛び出すような形でみえてきます。

 「見える、見えない」ということだけでなく、「わかった、わからない」ということも、ほんとうはとてもあいまいであったりするのです。自分には物事がすべてわかっているというふうに思えるときがあります。しかし何かの拍子に、今までそう思えていたことが嘘のように、まったく自分が何もわかっていなかったということに気づかされるということがあります。自分にははっきりと見えていたと思えていたのに、それは誤りでありぼんやりとしか見えていなかったということに気づかされるのです。たとえば、いろいろな差別の問題に対して取り組み、長い間そのことを考えて続けていても、差別されている人の言葉にはっとさせられて、今までわかっていたと思っていたのに、実際は何もわかっていなかったということに気づかされるということがあります。

 イエスさまは、はじめ唾をつけ、両手を盲人においていやされました。彼はそれによって、ぼんやりと見えるようになります。そしてイエスさまが、もう一度両手を目に当てられると、今度は「何でもはっきり」見えるようになります。このイエスさまによるいやしは、ひとりの盲人がいやされたという喜びの出来事であると同時に、多くの人々がイエスさまによって、新しくされるということを、比喩的に表わしています。

 イエスさまは弟子たちに、「目があっても見えない。耳があっても聞こえない。覚えていない」(マルコ8章18節)と言われました。私たちも同じようにイエスさまを信じられず、イエスさまから叱られてしまう者です。しかしイエスさまは弟子たちを叱り、くりかえしくりかえし導いてくださったように、私たちを導いてくださいます。私たちはイエスさまに出会ったことによって、必ず私たちはよき方向へ導かれるのです。

 私たちはいま、イエスさまと出会った盲人と同じように、ぼんやりと見えているということであるのかも知れません。はっきりとイエスさまのことがわかっているのではないかも知れません。しかしイエスさまは盲人にもう一度手をおかれ、「はっきりと見えるように」してくださったように、私たちをもイエスさまについて行く者へと、しっかりと導いてくださるのです。




2022年7月22日金曜日

2022年7月17日

 2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

 「そんなに格好つけなくてもいいよ。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 8:14-21節

 私たちは自分のことを良く見せたいという思いをもちます。プリクラもそうですし、ファッションなどもそうでしょう。自分の楽しみとか、自分の生活を生き生きするものにするということであれば、自分を良く見せたいという思いも、いい方向に働いていくことだと思います。『ジャパン ファッション クロニクル インサイトガイド』(講談社エディトリアル)という本を読んでいますと、わたし自身はそんなにファッションに興味のある人間ではないですけれども、なんとなく楽しい気がします。自分を生き生きと装っていくことの力強さというものを感じます。

 ただそうした自分自身のなかのことであれば良いですが、それが高じて、自分を良く見せたいがために、人を蔑むような気持ちになってくるのは、やはりよくないことです。ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々がおちいった罠というのは、そういうものだと思います。とくにファリサイ派の人たちは、はじめは純粋に神さまのことを思っていたわけです。そして周りの人たちを神さまへと導きたいと思っていました。しかしそうした歩みがいつのまにか高慢な思いへと変わっていき、人を裁くことへと向かっていきました。人は弱いものですから、いろいろな誘惑に負けてしまい、気づかないうちに高慢な歩みになってしまうということです。そうしたことを、イエスさまは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言葉で、戒められたのでした。

 イエスさまは「五千人に食べ物を与える」「四千人に食べ物を与える」という奇跡をとおして、私たちが神さまにより頼んで生きていくことの大切さを教えてくださいました。自分が格好良くなければならないのではなく、神さまにより頼んで生きることが大切なのだと、イエスさまは言われました。神さまはすべてのことに先立って、私たちを愛してくださっている。私たちがかっこいいから、神さまは私たちを愛してくださるのではありません。私たちがなんでもできる優秀な人であるから、神さまは私たちを愛してくださっているのではありません。神さまはただ、神さまの深い愛のゆえに、私たちを愛してくださっているのです。

 神さまが私たちを愛してくださっている。神さまの哀れみのなかに、私たちは生きている。ありのままのわたしを愛してくださっている。神さまに感謝しつつ、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2022年7月15日金曜日

2022年7月10日

 2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

 「あきらめない」 堀江有里牧師

   マルコによる福音書 7:24-30節

 信仰生活の出発点である平安教会の礼拝に参加できますことを心より感謝いたします。

 日本基督教団常議員会で男性同性愛者が牧師になることを「簡単に認めるべきではない」という発言がありました。すでに性的少数者の牧師たちはいました。わたしも「レズビアン」であることを表明していましたし、トランスジェンダーであると表明して牧師になった人もいました。しかし、公の問題となったのは1998年だったのです。

 発言に対しては即座に「差別だ」、「撤回するべきだ」という声があがりました。そこで一貫して主張された内容はシンプルでした。「差別は人を殺す」。いくつもの教会で性的マイノリティだと自分を表明した人たちが牧師や長老から責められ、追い詰められ、自ら死を選ばざるをえない状況にあったからです。

 問題とされた男性は牧師になりましたが、「差別」だとの指摘は教団で話し合われることはありませんでした。しかし、そのプロセスで与えられてきたことも少なくはありません。ひとつはキリスト教の世界も少しずつ変わってきていること。「差別はいけない」という合意がつくられてきています。もうひとつは抗議と抵抗の闘いのなかで女性たちのつながりがその後も残されていったこと。担い手はそれまで性差別問題への取組を進めてきた女性たちでした。性的少数者がおもな担い手となった欧米の教会とは大きく異なります。わたしたちは激しく議論になっても、ちがいがあっても、対話を「あきらめない」と決断したからこそ、お互いを支え合っていけたのだと思います。

 今日の物語は幼い娘をもつひとりの女性とイエスの出会いです。この人だったら娘を助けてくれるかもしれないとやってきた女性に対し、イエスの対応はあまりに冷酷です。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27)。救いはイスラエルの民だけにもたらされると考えられていた時代、この女性は「対象外」です。しかし、女性は食い下がります。イエスはその言葉に心動かされたようです。「それほど言うなら、よろしい」。つまりは「わかった」ということです。そして娘の不調は癒やされたという物語です。

 この女性は引き下がらなかった。そこに対話の可能性を切り開く回路がみてとれます。一度は拒絶したイエスも応じて自らを省みるのです。「あきらめない」ことの希望を、わたしたちは、この物語から読みとることができるのではないでしょうか。


2022年7月9日土曜日

2022年7月3日

 2022年7月3日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

 「落ち着いて宣べ伝える」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 6:1-13節

 「レヴィナスの『顔』という概念は、事象としてはこのような、私に道徳的対応を求めるものとしての他者の、対面の場での現出だといって良い。」(佐藤義之『レヴィナス』、講談社学術文庫)というのは、お互いに顔を合わすことによって、お互いに道徳的対応をすることができるということなのでしょう。

 わたしは電話で話しをしたときは、あまりいい印象をもたなかったけれども、会ってみるとふつうに話をすることができたという体験をとおして、いちいち過剰に反応することなく、穏やかな気持ちでいることの大切さを感じました。「あの人はいやな人だ」とすぐに思い込むのではなく、自分が落ち着いて、穏やかに生きていくことの大切さがあるような気がしました。

 イエスさまは弟子たちに、「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と言われました。弟子たちも誤解を受けることもありますし、不本意な扱いを受けることがあります。しかしそうしたことにいちいち腹を立てるのではなく、もうだめだと思ったら、その地を去りなさいと、イエスさまは言われました。「足の裏の埃を払い落とし」というのは、すこし呪術的な感じがしますが、「あなたたちとはもう何の関係もないよね」ということだと思います。ただそうしたことをあしざまに、直接、言うということではなく、自分たちの意思表示として、たんたんと行なうということです。いろいろな不快な出来事も、それはもうそれは神さまにお委ねするということです。

 いつまでもいつまでも、「あいつのことはぜったいゆるさない」「思い出すだけで、めちゃくちゃ腹が立つ」「あいつのことは、これからも呪い続けていく」というようなことではなく、足の裏の埃を払い落として、「はい、もうこのことは、これで終わり」ということにしなさいと、イエスさまは弟子たちに言われました。いつまでもいつまでも、怒りに振り回されるのではなく、落ち着いて宣べ伝えなさいと、イエスさまは弟子たちに言われたのです。

 イエスさまは私たちに「落ち着いて生きていきなさい」と言われます。健やかな気持ちをもって、神さまの御言葉に従って歩んでいきなさい。神さまはあなたのことを愛してくださり、あなたに良き道を備えてくださいます。怒りに支配されることなく、神さまの愛を感じて歩んできなさい。

 イエスさまの御言葉に従って、健やかな気持ちになって歩んでいきましょう。


2022年7月1日金曜日

2022年6月26日

 2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

 「やさしさと良識のある社会に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 5:1-20節

 私たちは誤解とか思い違いに支配されることがあります。そして人を墓場に追いやってしまうというようなことがあります。ある意味、自分も含めて「人って、恐ろしいなあ」と思います。汚れた霊に取りつかれていた人が墓場へと追いやられていたのは、イエスさまの時代ですから、昔々の時代です。ですから「そんなのは昔のことだ」と思いたいところですが、そうでもありません。私たちの時代にあっては、ハンセン病の歴史というのは、ある意味「人を墓場に追いやった」歴史であると思います。ハンセン病が治る病気であることがわかったにもかかわらず、日本はハンセン病患者に対する隔離政策を取り続けました。 

 高山文彦『火花 北条民雄の生涯』(角川文庫)という本があります。北条民雄は『いのちの初夜』という小説を書いています。北条民雄はハンセン病を患いながら、小説を書き、そして二三歳の若さで天に召されました。北条民雄は川端康成に師事し、小説家になります。川端康成は北条民雄から送られてくる原稿に目をとおし、心を配りながら励ましていきます。北条民雄の書いた作品に対してだけでなく、その北条民雄の生活などについても、川端康成は心を配ります。

 汚れた霊に取りつかれた人が家族から離れて墓場に住んでいたように、ハンセン病を患った北条民雄は家族から棄てられ、ハンセン病の施設でその生涯を終えました。北条民雄の父や母は、自分の息子がりっぱな小説を書いていることを人に告げることもできません。ふつうであれば自慢することができるわけですが、ハンセン病のゆえに告げることができないのです。北条民雄の家族には家族の悲しみがあるわけです。自分たちの身内を守るために、息子を棄てざるを得なかったのです。社会全体が汚れた霊に取りつかれているような感じがします。

 北条民雄の生涯や汚れた霊に取りつかれた人のことを思う時に、悪霊にとりつかれたような社会にならないようにしなければと思います。人を墓場に追いやるような社会にならないようにしなければと思います。ときに私たちは「悪霊に取りつかれているのは、だれなのだろう。自分ではないのか」ということを考えてみなければなりません。

 やさしいこころをもって、そしてまた冷静に物事を見定める落ち着きをもって、歩んでいきたいと思います。イエスさまに汚れた霊を追い出してもらった人が、落ち着いて、イエスさまの愛を人々に我慢強く宣べ伝えていったように、私たちも良き社会を求めて、歩んでいきましょう。