2019年3月17日 受難節第2主日礼拝説教要旨
「人の心の中に」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 11:14~26節
受難節(レント)に入って二回目の日曜日です。この時にあって聖書日課では、「ベルゼブル論争」とそれに続く箇所が挙げられていました。前の週では悪魔という言葉が出てきましたが、ここでは悪霊というものが出てきました。悪魔と悪霊という言葉の違いを見つつ、この聖書箇所が私たちに何を問いかけているのか考えたいと思います。
悪魔と悪霊という言葉は、ギリシャ語では音も非常に似ているのですが、ここで出てくる「悪霊」という言葉が他の箇所でどのように使われているのかを見てみますと、病気を引き起こすものとして描かれています。この悪霊をイエスは追い出し、病気を癒しているのですが律法学者たちは「イエスは悪霊の親玉、ベルゼブルだ」と言うのでした。他の宗教の神の名前に由来するベルゼブルという言葉を使い「あなたはベルゼブルだ」という悪口は、私たちの想像を超えるようなひどい悪口でありました。病気で苦しむ人を目の前にしながら、律法学者はイエスへの敵意をむき出しにして、人格を否定するような言葉を吐きかけたのでした。
そこでイエスは「悪霊の親玉と言うが、内輪でもめれば悪魔でさえ国は成り立たない」と説きます。ここでは律法学者とイエスの対立がありありと語られています。イエスのこの言葉は人間同士でさえ、内輪もめしてはいけないと諭しているのではないでしょうか。
研修で訪れた沖縄で、基地建設を巡り推進派と反対派という構造を目の当たりにし、基地推進派の行政が行う暴力に怒りを覚えました。しかし、そのような闘争の現場で大切にされていることは「非暴力でただ座ること」であるそうです。色々な意味がある言葉だと思います。私たちは意見の違う人を目の前にした時、どうしようもない敵意を抱くことがあります。しかし、律法学者に敵意を向けられたイエスはそれでも対話を試みています。どんな状況にあってもあきらめず話し合う大切さを忘れないようにしたいものです。
2019年3月26日火曜日
2019年3月18日月曜日
2019年3月10日
2019年3月10日 受難節第1主日礼拝説教要旨
「ひと時、悪魔が離れる」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 4:1~13節
6日に「灰の水曜日」をむかえ、教会暦は受難節(レント)の期間が始まりました。この時にあって聖書日課は、イエスが荒れ野で悪魔に「誘惑を受ける」とされている箇所でありました。この物語を通して私たちは何を問いかけられているのでしょうか
そもそも悪魔とは何を指しているのでしょうか。この物語で悪魔はイエスに3つの言葉をかけています。旧約聖書の言葉を引用しながら「空腹ならば石をパンに変えたらどうか」などと語りかけます。「悪魔の誘惑」とありますが、それ自体そんなに悪いことを悪魔が言っているわけでもありません。石をパンに変えることができれば、国の権限を手に入れることができれば、天使に体を守られるならば、教会の活動はもっと豊かになるように思えます。悪魔の誘惑とは決して、目に見えて悪い方向に人間をさせようとするものではありません。善く目える形で人間に迫ってきます。
「悪魔」に並んで「荒れ野」もこの物語ではキーワードとなっています。荒れ野とは当時にあっては、「城壁の外」、「忌み嫌われる病気にかかった人が追いやられる場所」、「神の愛が届かない場所」とされていました。今日の私たちが生活している状況は、城壁の中と言えるのでしょうか。「荒れ野」に住んでいるようなものかもしれません。何が正しいことなのかもわからない、そんな場所で悪魔の言葉がイエスを試しているのです。このやり取りを見ていると、悪魔もイエスも聖書の言葉を使いますが、そこには大きな違いがあります。悪魔は聖書の言葉を自分の立場を強める為や、他人を審判するために使います。しかしイエスは中立なものとして、言葉そのものを神の言葉と受け止めて話しています。私たちも荒れ野のようなこの社会に生きる中で、自分の為に聖書の言葉を解釈してしまう時があるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所は、そのような考えが悪魔であると指摘しているのではないでしょうか。イエスでさえ悪魔が離れたのはひと時であったとルカによる福音書は伝えます。イエスの宣教の道のりは、そのような「悪魔」との対峙であったのかもしれません。私たちも同じような世の中に生きていると言えるのではないでしょうか。
「ひと時、悪魔が離れる」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 4:1~13節
6日に「灰の水曜日」をむかえ、教会暦は受難節(レント)の期間が始まりました。この時にあって聖書日課は、イエスが荒れ野で悪魔に「誘惑を受ける」とされている箇所でありました。この物語を通して私たちは何を問いかけられているのでしょうか
そもそも悪魔とは何を指しているのでしょうか。この物語で悪魔はイエスに3つの言葉をかけています。旧約聖書の言葉を引用しながら「空腹ならば石をパンに変えたらどうか」などと語りかけます。「悪魔の誘惑」とありますが、それ自体そんなに悪いことを悪魔が言っているわけでもありません。石をパンに変えることができれば、国の権限を手に入れることができれば、天使に体を守られるならば、教会の活動はもっと豊かになるように思えます。悪魔の誘惑とは決して、目に見えて悪い方向に人間をさせようとするものではありません。善く目える形で人間に迫ってきます。
「悪魔」に並んで「荒れ野」もこの物語ではキーワードとなっています。荒れ野とは当時にあっては、「城壁の外」、「忌み嫌われる病気にかかった人が追いやられる場所」、「神の愛が届かない場所」とされていました。今日の私たちが生活している状況は、城壁の中と言えるのでしょうか。「荒れ野」に住んでいるようなものかもしれません。何が正しいことなのかもわからない、そんな場所で悪魔の言葉がイエスを試しているのです。このやり取りを見ていると、悪魔もイエスも聖書の言葉を使いますが、そこには大きな違いがあります。悪魔は聖書の言葉を自分の立場を強める為や、他人を審判するために使います。しかしイエスは中立なものとして、言葉そのものを神の言葉と受け止めて話しています。私たちも荒れ野のようなこの社会に生きる中で、自分の為に聖書の言葉を解釈してしまう時があるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所は、そのような考えが悪魔であると指摘しているのではないでしょうか。イエスでさえ悪魔が離れたのはひと時であったとルカによる福音書は伝えます。イエスの宣教の道のりは、そのような「悪魔」との対峙であったのかもしれません。私たちも同じような世の中に生きていると言えるのではないでしょうか。
2019年3月4日月曜日
2019年2月24日
2019年2月24日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
「ひとり祈る姿に」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 5:12~16節
今日の聖書箇所では、重い皮膚病にかかった人がイエスによって治ったという奇跡物語が語られています。イエスの治癒奇跡は福音書の中で度々語られていますが、科学的な常識に生きる今日にあってはなかなか信じることができるものでもありません。イエスの治癒奇跡は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
専門が異なる7人の著者によってイエス像が分析された『人間イエスをめぐって』(教団出版局、1999年)という本の中で、医師である川越厚さんはイエスがどのように病気と向き合ったのかということに注目されていました。現代医学は科学主義に根差しているが故に、症状を見た時にその根本的な原因が重要視されるのだそうです。例えば糖尿病を発症すると手足の壊死や失明など、様々な症状が現れますが、血糖値をコントロールする処置が行われます。症状を一つ一つ対処するのではなく、根本的な原因が究明されるのです。一方イエスはどのように病気に向き合ったのか、川越さんはイエスの治癒の特徴として「治すのではなく、癒している」と分析しておられました。イエスが治癒の対象とした病気は、当時の社会にあっては発症すると共同体から疎外されてしまうものがほとんどでした。特定の病にかかるということは神からの裁き、神からの愛の断絶とも理解された状況にあって、イエスは病を「癒した」のです。
重い皮膚病に関して旧約聖書のレビ記では、その対応がくわしく規定されています。イエスの時代には「病は神からの罰である」という考え方がなされていたことが想像できますが、レビ記を見るとどのような症状が「神の罰」なのか、ということよりもどうすれば治るのかということに注意が払われています(関田寛雄、1989年)。科学的な考え方に生きる今日にあって、私たちは人間を忘れて根本的な原因を中心としてしまう時があるように思います。イエスが行った治癒奇跡は、自らの力を示すものでも、祭司や律法学者に対抗するための業ではなく、「疎外からの解放」を意味しました。イエスの奇跡を読むとき「治す」ことにばかり気が向いてしまいますが、関係性の回復である「癒し」を通して示された神の愛を実践する人でありたいものです。
「ひとり祈る姿に」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 5:12~16節
今日の聖書箇所では、重い皮膚病にかかった人がイエスによって治ったという奇跡物語が語られています。イエスの治癒奇跡は福音書の中で度々語られていますが、科学的な常識に生きる今日にあってはなかなか信じることができるものでもありません。イエスの治癒奇跡は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
専門が異なる7人の著者によってイエス像が分析された『人間イエスをめぐって』(教団出版局、1999年)という本の中で、医師である川越厚さんはイエスがどのように病気と向き合ったのかということに注目されていました。現代医学は科学主義に根差しているが故に、症状を見た時にその根本的な原因が重要視されるのだそうです。例えば糖尿病を発症すると手足の壊死や失明など、様々な症状が現れますが、血糖値をコントロールする処置が行われます。症状を一つ一つ対処するのではなく、根本的な原因が究明されるのです。一方イエスはどのように病気に向き合ったのか、川越さんはイエスの治癒の特徴として「治すのではなく、癒している」と分析しておられました。イエスが治癒の対象とした病気は、当時の社会にあっては発症すると共同体から疎外されてしまうものがほとんどでした。特定の病にかかるということは神からの裁き、神からの愛の断絶とも理解された状況にあって、イエスは病を「癒した」のです。
重い皮膚病に関して旧約聖書のレビ記では、その対応がくわしく規定されています。イエスの時代には「病は神からの罰である」という考え方がなされていたことが想像できますが、レビ記を見るとどのような症状が「神の罰」なのか、ということよりもどうすれば治るのかということに注意が払われています(関田寛雄、1989年)。科学的な考え方に生きる今日にあって、私たちは人間を忘れて根本的な原因を中心としてしまう時があるように思います。イエスが行った治癒奇跡は、自らの力を示すものでも、祭司や律法学者に対抗するための業ではなく、「疎外からの解放」を意味しました。イエスの奇跡を読むとき「治す」ことにばかり気が向いてしまいますが、関係性の回復である「癒し」を通して示された神の愛を実践する人でありたいものです。
2019年2月25日月曜日
2019年2月17日
2019年2月17日 降誕節第8主日礼拝説教要旨
「後ろを振り向くとイエス様が」 佐藤博牧師
ルカによる福音書 20:11~18節
政治の世界には、「腐敗しない権力はない」との法則があります。その人間世界の法則とは対照的に中世にルターと同様に宗教改革を行ったプロテスタントの指導者カルヴィンは、彼の聖書注解で「聖書の教えは何時でも、どこでも、きわめて十全で完全なものである。だから私たちの信仰に欠けているものは全て、私たち聖書に対する無知のせいによる」と記しています。
2人の弟子はマグダラのマリアの知らせで墓に行きましたが、墓が空でしたので彼らは「家に帰った」と伝えています。墓の周辺は危険なことが多いため、彼らは家に帰ったようです。創世記冒頭の2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面に動いていた」とあります。神の創造の御業・救いの御業が行われるとき、暗闇の深淵と人が受け取り難い堅実がそこにあります。それ故、暗闇は神の救いの御業の始まりであるとの信仰があるです。
マリアは2人の弟子たちの所に墓が空であることを知らせましたが、その空の墓にマリアは残ったとヨハネは伝えています。イエス様との関係は、連れ立った集団の行動では成り立たないようです。人間の希望と救いの始まりも、マリアが一人で耐え、歩み生きようとするところから始まりました。
マリアが天使たちとのやりとりの後に「後ろを振り向くと」という所ですが、この「振り向く(ステレフォー)」は、「振り返る、方向を変える、心を入れかえる」の意味をもちます。人間の心と体の向く方向は、常に水平、すなわち人や地上の物の方向です。しかしイエス様や神の真実は、人間の向く方向とは逆の後ろの・天の・神の方向です。この聖書の箇所では、神の霊の導きによって主のお声で名を呼ばれ、墓とは逆に心と体の向きを変えて復活の主との出会いが始まりました。人が心の向きを変えることは人の力、理性では実現できないことを示しているのです。
「後ろを振り向くとイエス様が」 佐藤博牧師
ルカによる福音書 20:11~18節
政治の世界には、「腐敗しない権力はない」との法則があります。その人間世界の法則とは対照的に中世にルターと同様に宗教改革を行ったプロテスタントの指導者カルヴィンは、彼の聖書注解で「聖書の教えは何時でも、どこでも、きわめて十全で完全なものである。だから私たちの信仰に欠けているものは全て、私たち聖書に対する無知のせいによる」と記しています。
2人の弟子はマグダラのマリアの知らせで墓に行きましたが、墓が空でしたので彼らは「家に帰った」と伝えています。墓の周辺は危険なことが多いため、彼らは家に帰ったようです。創世記冒頭の2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面に動いていた」とあります。神の創造の御業・救いの御業が行われるとき、暗闇の深淵と人が受け取り難い堅実がそこにあります。それ故、暗闇は神の救いの御業の始まりであるとの信仰があるです。
マリアは2人の弟子たちの所に墓が空であることを知らせましたが、その空の墓にマリアは残ったとヨハネは伝えています。イエス様との関係は、連れ立った集団の行動では成り立たないようです。人間の希望と救いの始まりも、マリアが一人で耐え、歩み生きようとするところから始まりました。
マリアが天使たちとのやりとりの後に「後ろを振り向くと」という所ですが、この「振り向く(ステレフォー)」は、「振り返る、方向を変える、心を入れかえる」の意味をもちます。人間の心と体の向く方向は、常に水平、すなわち人や地上の物の方向です。しかしイエス様や神の真実は、人間の向く方向とは逆の後ろの・天の・神の方向です。この聖書の箇所では、神の霊の導きによって主のお声で名を呼ばれ、墓とは逆に心と体の向きを変えて復活の主との出会いが始まりました。人が心の向きを変えることは人の力、理性では実現できないことを示しているのです。
2019年2月19日火曜日
2019年2月10日
2019年2月10日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
「卑怯に使った安息日」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 6:1~11節
日本基督教団で2月11日は「信教の自由を守る日」とされています。神武天皇が即位したことに由来してなのか、日本の法律ではこの日を「建国を偲び、国を愛する心を養う」為に建国記念日とされています。この日を覚えて、政治の思惑にとらえられない信仰、そして平和を祈りましょう。そんな中で読んでいただいた聖書箇所では、イエスが安息日を批判している場面でした。イエスが、当時の安息日の守り方を批判する場面は、福音書の中で度々語られています。結果的にこれらの行為が原因で死刑に処されたわけですが、なぜこれほどまでに当時の安息日を批判したのでしょうか。
安息日の起源を考えてみますと、申命記には「奴隷や家畜」もこの日には休んでもらわなくてはいけない、と宗教的な側面だけではなく、社会的な意図を読み取ることができます。しかしイスラエルが戦争のせいでバビロン捕囚という経験をする中で、目には見えないけれど自分がユダヤ教徒であるアイデンティティの為に安息日は様々な意味が付け加えられたと推測できます。さらにイエスが生きた時代には、安息日に様々な解釈が付け加えられ、他人を裁く道具になっていたことがこの聖書箇所からもうかがい知ることができます。イエスはここで、本質からかけ離れた安息日の守り方を批判しているのではないでしょうか。
環境問題が叫ばれる今日にあって、私たちはなるべく環境にやさしいものを使おうと心がけています。しかし、環境問題にも言及する神学者ジョン・コッブJr.は、GDPなどの指標が追及される中で、それぞれの分野が孤立化し、全体状況への無責任が生じていると警鐘を鳴らしていました。具体的には、風力発電機など、環境に良いとされるもの一部は製造過程において、大量の放射性廃棄物を生み出す現状があるのだそうです。複雑化した社会の中で、それら一つ一つを自分で見分けるということは安易ではありません。しかし聖書に立ち返りイエスの姿を見ると、複雑化し自らの考えを押し付けるかのように利用されていた安息日規定を批判しながら、大事にしたのを自分の前に立たされた人間でありました。様々な思惑の中でも、日常の中で一つ一つの出会いを大切にしなさいと、イエスは語っているのではないでしょうか。
「卑怯に使った安息日」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 6:1~11節
日本基督教団で2月11日は「信教の自由を守る日」とされています。神武天皇が即位したことに由来してなのか、日本の法律ではこの日を「建国を偲び、国を愛する心を養う」為に建国記念日とされています。この日を覚えて、政治の思惑にとらえられない信仰、そして平和を祈りましょう。そんな中で読んでいただいた聖書箇所では、イエスが安息日を批判している場面でした。イエスが、当時の安息日の守り方を批判する場面は、福音書の中で度々語られています。結果的にこれらの行為が原因で死刑に処されたわけですが、なぜこれほどまでに当時の安息日を批判したのでしょうか。
安息日の起源を考えてみますと、申命記には「奴隷や家畜」もこの日には休んでもらわなくてはいけない、と宗教的な側面だけではなく、社会的な意図を読み取ることができます。しかしイスラエルが戦争のせいでバビロン捕囚という経験をする中で、目には見えないけれど自分がユダヤ教徒であるアイデンティティの為に安息日は様々な意味が付け加えられたと推測できます。さらにイエスが生きた時代には、安息日に様々な解釈が付け加えられ、他人を裁く道具になっていたことがこの聖書箇所からもうかがい知ることができます。イエスはここで、本質からかけ離れた安息日の守り方を批判しているのではないでしょうか。
環境問題が叫ばれる今日にあって、私たちはなるべく環境にやさしいものを使おうと心がけています。しかし、環境問題にも言及する神学者ジョン・コッブJr.は、GDPなどの指標が追及される中で、それぞれの分野が孤立化し、全体状況への無責任が生じていると警鐘を鳴らしていました。具体的には、風力発電機など、環境に良いとされるもの一部は製造過程において、大量の放射性廃棄物を生み出す現状があるのだそうです。複雑化した社会の中で、それら一つ一つを自分で見分けるということは安易ではありません。しかし聖書に立ち返りイエスの姿を見ると、複雑化し自らの考えを押し付けるかのように利用されていた安息日規定を批判しながら、大事にしたのを自分の前に立たされた人間でありました。様々な思惑の中でも、日常の中で一つ一つの出会いを大切にしなさいと、イエスは語っているのではないでしょうか。
2019年2月4日月曜日
2019年1月27日
2019年1月27日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
「きれいなものではなく」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 21:1~9節
「やもめの献金」という物語はよく知られたものですが、聖書日課では「神殿の崩壊を予告する」、「終末のしるし」も続けて指定されていました。やもめの献金だけ読みますと、自分の持っているものを全て神にささげ、お金ではなく神に信頼を置く生き方を教えられますが、この聖句は更に他のことも問いかけているのではないかと思います。
イエスは福音書の中で「石」を用いたたとえ話をよくされました。イエスの職業について一般的には「大工であった」と言われることが多いかと思います。マルコによる福音書6章3節で故郷に帰り語ったイエスは「この人は大工ではないか」と言われて疑われています。「大工」を意味するギリシャ語は「オイコドモス」と言う単語で「家を建てる者」という意味があります。しかし、ここで「この人は大工ではないか」と言われた「大工」はオイコドモスというギリシャ語ではありません。「テクトーン」という単語で、これは石を切り・削り・掘るような職業を指すものであります。当時のユダヤ人が最も嫌った職業の一つでした(本田哲郎、2010年)。作業中に出る粉塵のせいで、健康被害があることが原因であったようです。日本ではイスラエルと違い石造の建築物はあまりありませんが、有名なものでは「国会議事堂」があります。外国に倣って石造りの立派な議事堂を造る事になったようです。国産にこだわった数十種類の石材が日本全国から集められて建造され、従事した労働者は200万人にものぼるようです。その中には多くの「外国人労働者」が利用されたそうです。
エルサレムの神殿をダビデがどのように建てたのか、歴代誌22章が記録しています。賢者を意味する職人たちも多く集められたようですが、国内の寄留者も多く集められ、採石労働者、すなわち石を切る労働もありました。2レプトンを奉げる人がいる一方で、多額の寄付を喜び神殿の美しさにしか思いの及ばない人たちをイエスは見て、働き人の姿を思い出したのではないでしょうか。イエスは誰が石を削り、誰が粉まみれになっているのかを知っていたのです。現代の日本でも、不安定で便利な労働形態は増えながら、見かけの豊かさや綺麗さが追い求められています。しかし、神に従うことはそのような豊かさとは違うということをイエスは語っているのではないでしょうか。
「きれいなものではなく」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 21:1~9節
「やもめの献金」という物語はよく知られたものですが、聖書日課では「神殿の崩壊を予告する」、「終末のしるし」も続けて指定されていました。やもめの献金だけ読みますと、自分の持っているものを全て神にささげ、お金ではなく神に信頼を置く生き方を教えられますが、この聖句は更に他のことも問いかけているのではないかと思います。
イエスは福音書の中で「石」を用いたたとえ話をよくされました。イエスの職業について一般的には「大工であった」と言われることが多いかと思います。マルコによる福音書6章3節で故郷に帰り語ったイエスは「この人は大工ではないか」と言われて疑われています。「大工」を意味するギリシャ語は「オイコドモス」と言う単語で「家を建てる者」という意味があります。しかし、ここで「この人は大工ではないか」と言われた「大工」はオイコドモスというギリシャ語ではありません。「テクトーン」という単語で、これは石を切り・削り・掘るような職業を指すものであります。当時のユダヤ人が最も嫌った職業の一つでした(本田哲郎、2010年)。作業中に出る粉塵のせいで、健康被害があることが原因であったようです。日本ではイスラエルと違い石造の建築物はあまりありませんが、有名なものでは「国会議事堂」があります。外国に倣って石造りの立派な議事堂を造る事になったようです。国産にこだわった数十種類の石材が日本全国から集められて建造され、従事した労働者は200万人にものぼるようです。その中には多くの「外国人労働者」が利用されたそうです。
エルサレムの神殿をダビデがどのように建てたのか、歴代誌22章が記録しています。賢者を意味する職人たちも多く集められたようですが、国内の寄留者も多く集められ、採石労働者、すなわち石を切る労働もありました。2レプトンを奉げる人がいる一方で、多額の寄付を喜び神殿の美しさにしか思いの及ばない人たちをイエスは見て、働き人の姿を思い出したのではないでしょうか。イエスは誰が石を削り、誰が粉まみれになっているのかを知っていたのです。現代の日本でも、不安定で便利な労働形態は増えながら、見かけの豊かさや綺麗さが追い求められています。しかし、神に従うことはそのような豊かさとは違うということをイエスは語っているのではないでしょうか。
2019年1月29日火曜日
2019年1月20日
2019年1月20日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
「みんなちがって、みんないい」 藤浪敦子牧師
コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12:18~26節
私たち一人ひとりの個性は神が与えてくださったものだから、互いに認め合い、受けいれあっていくことが大切だとパウロは伝えています。しかも、人の弱さや足りなさ、至らなさといった負の部分も、神が与えられた大切な個性であり、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)、その個性をその人に与えられたと記しています。自分自身の弱い部分、人よりも見劣りする部分、情けない部分を受けとめることは簡単なことではありません。人との関わりの中であれば一層難しいことです。自分自身の個性であれ、人の個性であれ、神が与えられた個性、お互いの違いをどう理解し受けとめていったらいいのでしょうか。
違いを認め合うことの大切さ、人の弱い部分をも神が与えられた大切な個性であると記した、その後に続けて、コリントの信徒への手紙1の13章に「愛」について書かれていることは大切なことです。「愛」というと、私たち自身が愛を実践していくことが心に浮かびます。しかし「愛」の中心は、何よりもまず「神の愛」であることをパウロは伝えています。人の弱さや小ささをもありのままに受けとめ導いてくださる神の愛の確かさが、私たちの命の源、信仰生活の基にはあるのです。
この神の愛の事実を思うとき、たとえ自らの信仰の正しさや熱心さでお互いの違いを受け入れること、個性を認め合うことができなかったとしても、私たち一人ひとりに注がれている神の愛を信じ、委ねてみることならばできるのではないでしょうか。そして、神の愛を信じ受けとめるところから、次第に私たち自身も神の愛を実践する者へと導かれていくことができたらと思います。
与えられているこの命、人生、日々の歩みの中に込められている神様の深い配慮を信じつつ、自分の力、正しさや信仰の強さではなく、神様の愛のゆえに与えられているこの命であることを心に刻み、主を仰ぎ、これからも信仰の道を一歩一歩、大切に歩む者でありたいと願います。
「みんなちがって、みんないい」 藤浪敦子牧師
コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12:18~26節
私たち一人ひとりの個性は神が与えてくださったものだから、互いに認め合い、受けいれあっていくことが大切だとパウロは伝えています。しかも、人の弱さや足りなさ、至らなさといった負の部分も、神が与えられた大切な個性であり、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)、その個性をその人に与えられたと記しています。自分自身の弱い部分、人よりも見劣りする部分、情けない部分を受けとめることは簡単なことではありません。人との関わりの中であれば一層難しいことです。自分自身の個性であれ、人の個性であれ、神が与えられた個性、お互いの違いをどう理解し受けとめていったらいいのでしょうか。
違いを認め合うことの大切さ、人の弱い部分をも神が与えられた大切な個性であると記した、その後に続けて、コリントの信徒への手紙1の13章に「愛」について書かれていることは大切なことです。「愛」というと、私たち自身が愛を実践していくことが心に浮かびます。しかし「愛」の中心は、何よりもまず「神の愛」であることをパウロは伝えています。人の弱さや小ささをもありのままに受けとめ導いてくださる神の愛の確かさが、私たちの命の源、信仰生活の基にはあるのです。
この神の愛の事実を思うとき、たとえ自らの信仰の正しさや熱心さでお互いの違いを受け入れること、個性を認め合うことができなかったとしても、私たち一人ひとりに注がれている神の愛を信じ、委ねてみることならばできるのではないでしょうか。そして、神の愛を信じ受けとめるところから、次第に私たち自身も神の愛を実践する者へと導かれていくことができたらと思います。
与えられているこの命、人生、日々の歩みの中に込められている神様の深い配慮を信じつつ、自分の力、正しさや信仰の強さではなく、神様の愛のゆえに与えられているこの命であることを心に刻み、主を仰ぎ、これからも信仰の道を一歩一歩、大切に歩む者でありたいと願います。
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