「夜のうちに」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書2章13〜15節)
クリスマスの喜びも束の間、羊飼いの告げた天使の歌声のことにしても、見知らぬ異邦の博士がささげた賜物にしても、ヨセフに訪れたこれら次々の事件にヨセフが陥った混乱と困惑の有様は目に見えるような気がします。
そしてやっと一息ついた時、再び主の使いが夢に表われて「エジプトに逃げよ」と命じるのです。今では飛行機で2時間位の旅ですが、生まれて間もない幼子と産後まだ日も浅い妻を連れて、行ったこともないエジプトまでの遠い熱砂の道を行くことは、決して易しいことではありません。躊躇して当たり前のことです。しかし、ヨセフは、起きて夜のうちに幼子と母を連れてエジプトへ出発しました。(14節)朝まで待ちませんでした。
ヨセフは神の言が与えられた時、直ちに行動を起こしたのです。何もわからぬまま神の命令にすぐに服従したのでした。
聖書の出来事には「もし……だったら」という仮定法でものを考えるのは無意味なことなのですが、しかし、私たちは時々考えてしまいます。
もしあの時にヨセフが疑問をもってすべてを明らかにしようとして「もう少し待ってください」とか「何故この話が必要なのですか」とか「エジプト以外のもっと近くに言い所はないのですか」などと反問したり、呟いていたら、幼子イエスがヘロデ王の虐殺から逃げることが出来ただろうかということです。
多分ヨセフはこのような気持ちで先祖たちがモーセに導かれて通った砂漠の道を、逆の方向にエジプトに向けて旅をしたのです。
これが信仰の服従であり、忠実さではないでしょうか。私たちにとって、イエスを迎えるということは、人生に一つの不安を呼び起こす事だと思います。私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにはならないと思うのです。
信仰とは、イエスを私の中に迎え、受け入れることであって、自分が僕になることなのです。舞台の主役を自分からイエスに譲ることなのです。ヨセフと共に直ちに行動を起こす者となりましょう。
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