「あなたは幸いなのだ」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書5章3〜12節)
今朝の個所はイエスの説教の冒頭、山上の説教と呼ばれるはじめの部分のものなのですから、これは「マタイが最も伝えたかったこと」なのだと考えられます。
イエスのもとに多く集まって来た人々とはどのような人であったかは4章24節に記されています。それは「色々な病気・・・・あらゆる病人」でした。病をもつことは、罪の結果と考えられていた当時の社会では、これらの人々は魂の孤独の中に居たに違いないのです。さらに痛みと悲しみや飢えという苦しみの中にいたのです。
その人たちに「あなたは幸いだ」と語られたのです。「貧しい人」とは、不当に財産を奪われ、そこで悩み苦しむ人。「飢え乾いている人」は明白に食物に困っている人のことです。しかし、現実に苦しんでいる人たちに向かって「幸いだ」などと言われたのは何故か。このイエスの言葉がもし現実離れしたまやかしであるならマタイが後世の人々に伝えようとしたでしょうか。この言葉が悲しみの中で苦しんでいる人たちに力を与え、励まし、希望を与えたからこそ、私たちも言葉を受け継いでいるのではないでしょうか。
しかし、イエスが語ったからと云って、彼らの現実の何が変わったのでしょうか。何が彼らに力を与えたのでしょうか。それは何時も「イエスが共にいる」ということです。貧しい時、悲しい時、飢え乾いている時、わたしがあなたと共にいると宣言されたのです。
あなたは一人で耐えたり、戦うのではない、わたしが共にいて、共に苦しみを担おうという決意でこの山上の説教をされたのです。苦難の状況にあっても12節で「大いに喜びなさい」と。楽しい事ばかりだから喜びなさいというのではなく、厳しく辛いと思う時にも喜びなさいです。何故なら私たちはイエスによって愛されているからです。苦しみや悲しみより、もっと決定的なものに愛されているのです。「悩むものよとく立ちて、恵みの座にきたれや、天の力に癒し得ぬ 悲しみは地にあらじ」(旧讃美歌399)
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