「私は良い羊飼い」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書10章7?18節)
2016年がスタートしました。この年も「神・共にいます」年です。だからこそ、希望があります。そこに信頼し源をおいて歩む時、この年も祝福されていること間違いなしです。
「イエスキリストは良い羊飼いである」というのが今日のテーマです。イエスは自分のことをわざわざ「良い羊飼い」と言わなければならなかったのは何故でしょうか。
ユダヤ人は神を羊飼いと表現しました。そこから自分たちを神のもとに導く人も羊飼いと呼びました。それが自分の民族の政治的独立と重なって力ある指導者を「羊飼い」と呼んだというのです。しかし、そうした試みは何れも失敗に終わっているのですが、その中でイエスは自分こそ本当の「羊飼い」だという意味で「良い羊飼い」と表現しました。
本当の羊飼いは羊のために生命を捨てるのだとイエスは云われます。我々は「生命をかけて」何々といいます。即ち、失うかもしれないけれども、自分の生命をかけるほど価値あるものを得られるという勘定が働いているのです。しかし「生命を捨てる」と云うイエスの言葉は、万が一にも自分の生命を救うことはないのです。何故、羊飼いは生命を捨てるのでしょうか。自分の生命と引き換えに、羊の生命を救うという行為なのです。
14節で「自分の羊を知っており、羊も自分を知っているから」だと語ります。羊飼いと羊とではどちらが価値があるかといえば、羊飼いです。しかし、イエスは羊のために生命を捨てるというのです。
これこそ良い羊飼いなのです。これほどまでの羊飼いが、これほどまでの愛がなければ私たちは生命を得ることはできないのです。羊飼いが羊を愛するように、私たちを愛して下さっているのに、その事に気づかず、知ろうとしていないのです。
そんな私たちの現実と弱さを十分に知りつつ、その弱さと罪から救い出すためにイエスは「生命を捨てる」というのです。「価値のない私たちのために生命を捨てた人がいる」、常にそこに立ち帰って2016年も歩みましょう。それが私たちの門なのです。そこに真の生命があるのです。
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