2026年7月23日木曜日

2026年7月19日

 2026年7月19日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「力ある方に守られて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:14-29節

 朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』は、私たちクリスチャンにとっては、目がいく小説のタイトルです。どうして推し活のはなしに、『イン・ザ・メガチャーチ』という題がついているのかということですが、推し活という経済活動を作り出していく方法が、アメリカのメガチャーチの信徒を組織していくやり方と似ているということからきています。『イン・ザ・メガチャーチ』という小説を読んでいると、『メガチャーチ』と『スモールチャーチ』は、別物だなあと思います。私たちは個人が自由に信じているということを大切にしています。信じさせる手法ということがあるわけではありません。

 今日の聖書の箇所は「信仰」ということについて考えさせられる聖書の箇所です。弟子たちがいやすことができない汚れた霊にとりつかれたこどもを、イエスさまがいやされます。イエスさまはいやすことができない弟子たちに対して、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれます。またこどもの父親が「おできになるなら」と言ったことについて、イエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と、お叱りになられます。

 まあ、イエスさまからみれば、「信仰のない時代」ですし、「信じる者がいない」時代であるわけです。でもまあ、そんなにイエスさまにほめられるようなりっぱな信仰をもっているのであれば、イエスさまを頼って生きていくこともないわけです。りっぱな信仰をもってないから、イエスさまに依り頼んで生きているのに、「りっぱになれ」と言われても困ってしまうわと思います。

 そういう意味では、汚れた霊に取りつかれたこどもの父親の態度は、なかなか当を得ているような気がします。イエスさまから叱られると、とにかく「信じます」と答えます。もうあなたを信じるしかないのですと、父親は答えるのです。ただその信じるということは、自分が信じるということなので、はなはだ頼りないのです。自分は頼りにならない。ですから「信じます」と答えつつ、「信仰のないわたしをお助けください」と、イエスさまにお委ねします。私たち人間は神さまに助けていただくという形でしか、信じるということはできないのです。

 私たちは力ある方がおられるということを知っています。そしてその方をただ私たちは信じているのです。私たちは弱く力のない、また信仰の弱いものです。しかし力ある方が私たちを救ってくださり、私たちを導き、祝福してくださるのです。


2026年7月17日金曜日

2026年7月12日

 2026年7月12日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「希望をしっかりともって」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:22-26節

 お手本があるというのは、未来に向かって歩んでいく時に、とても良い指針になるような気がします。ワールドカップの日本代表選手の中村敬斗選手は、少年のときに「ロナウジーニョのようになりたい」と思ったということです。

 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「あなたがたもわたしのようになってください」(ガラテヤ4章12節)と言っています。使徒パウロは希望をしっかりともって生きていました。パウロの生涯はなかなか大変な生涯でした。迫害されたり、投獄されたり、伝道の途中で乗っていた舟が難破したりと、いろいろな困難の目に合いました。いろいろな苦難を体験しました。しかしそうした中で、使徒パウロは「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマの信徒への手紙5章3−5節)と語りました。「希望をしっかりともって生きる」。これは私たちクリスチャンに与えられている大きな恵みです。

 イエスさまはベトサイダで盲人の目を見えるようにされました。盲人はイエスさまと出会うことによって、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになりました。「何でもはっきり見えるようになりました」という言葉は、目が見えるようになったということだけでなく、象徴的な言葉のように思えます。盲人はイエスさまと出会うことによって、自分がどのように生きていくのかということがはっきりしたということです。

 使徒パウロは、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。・・・・・。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリント13章12ー13節)と言いました。世の終わりのとき、私たちは神さまを顔と顔を合わせて見るようになるけれども、そのとき初めてはっきりと見ることができるのだと、使徒パウロは言いました。パウロは神さまと出会う時に、人ははじめてはっきりと見ることができるのだと言いました。

 神さまは私たちをその愛でもって包み込んでくださっています。私たちはしっかりと希望を持って歩みたいと思います。私たちは弱さを抱えている者ですけれども、神さまは私たちをしっかりととらえていてくださいます。私たちの弱さも含めて、神さまにお委ねして、そして希望を持って歩んでいきましょう。


2026年7月10日金曜日

2026年7月5日

 2026年7月5日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「恵みを見つける」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:14-21節

 私たちの日常生活、世界はわたしのためにあると思えるような毎日というわけではありません。「ない、ない、ない」「いいことない」。まあそんなふうに思えるときもあるわけです。しかしそれは神さまの恵みを見逃してしまっているのではないかと思います。

 イエスさまの弟子たちは自分たちの食事となるパンを持って来るのを忘れてしまいました。たぶんパンを持って来るのを忘れた人は、イエスさまに気づかれないうちに、こそこそっと抜け出して、どこかでパンを買ってこようと思っただろうと思います。そんなことを思っているときに、イエスさまが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われたのです。弟子たちはみんな自分たちがパンを持ってこなかったから、イエスさまが怒っておられると思ったのでした。

 イエスさまはかなり激しい調子で弟子たちを諭されました。「どうしてパンを持ってくるのを忘れたことで、心を乱してしまうのか。それがそんなに大切なことなのか。わたしがそんなことで怒り出すと思っているのか」。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。「そのお前の顔についているのは何だ。目と違うのか。顔の横についているのは何だ。耳と違うのか」。

 私たちもまた弟子たちのように、小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっているということがあります。私たちの生活の中でいろいろなことが起ります。私たちにとって意に沿わないこともたくさん起ります。世の中、わたし中心に回っているわけではありません。どうもおもしろくない。どうもうまくいかない。また失敗してしまった。そういうことはありますし、まあ心地よいというわけではないでしょう。しかしそうしたことにだけ心を奪われてしまうときに、私たちは大切なことを忘れてしまっています。小さなことばかりにこだわっていると、大きな恵みに気がつかないということがあるのです。

 いろいろなことがある私たちの歩みですけれども、私たちは神さまからも恵みを見つける歩みでありたいと思います。神さまが私たちに備えてくださっている恵みに気づくことのできる歩みでありたいと思います。神さまはたくさんの恵みを私たちに備えてくださっています。私たちは宝物を探すように、その恵みを一つずつ探していきたいと思います。そしてその恵みを見つけて、「神さま、ありがとう」と神さまに感謝したいと思います。


2026年7月3日金曜日

2026年6月28日

 2026年6月28日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「わたしのなかに住んでいる罪」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 6:14-29節

 加藤喜之『福音派ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)には、福音派とアメリカ政治との関係の歴史について書かれてあります。1974年5月中旬に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された記事をみて、ビリー・グラハムは友人として親しくしてきたニクソン大統領が、とんでもない悪事を重ねても平気な人間であることを知ることになります。ビリー・グラハムは泣き悲しみ、嘔吐するほどだったと言われています。ビリー・グラハム牧師は倫理的な感性を失った大統領に失望したわけです。でもいまの多くの福音派の牧師たちは、倫理的な感性を失った大統領に失望するだろうかと考えた時、そうしたことはあまり関係のないこととして考えるだろうなあと思いました。

 洗礼者ヨハネは、イエスさまの前に世に現れ、人々に悔い改めを迫りました。政治家に対しても、痛烈な批判をしていました。洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判していたため、ヘロデ王によって殺されました。ヘロデ王は洗礼者ヨハネによって批判されていたのですが、一方で洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であったので、洗礼者ヨハネの話すことに耳を傾けていました。

 自分の中の罪ということに、真摯に向き合った人に、使徒パウロという人がいます。ローマの信徒への手紙7章7節以下に「内在する罪の問題」という表題のついた聖書の箇所があります。使徒パウロは自分の中に罪がいて、その罪が自分を悪い方へと導いていき、神さまの御心に反することをしていると言っています。

 人というのはなかなかやっかいなもので、一方で良い人でありたいと思いながら、他方で自分の好き勝手なことばかりしていたりするわけです。使徒パウロはそんなやっかいな人間の一人として、自分の中にある罪に向き合いました。そして自分ではどうすることもできないけれども、イエス・キリストがわたしの罪を贖ってくださり、こんな惨めなわたしを救ってくださるということに気づきました。そして使徒パウロはイエスさまに従って歩みました。

 私たちもまたいろいろな弱さを抱え、そしてときに邪な思いをもつ、やっかいな人間です。しかしそんな私たちを愛してくださり、私たちを祝福してくださる神さまがおられます。悔い改めの気持ちをもちつつ、神さまの愛を受け入れて、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。




2026年6月26日金曜日

2026年6月21日

 2026年6月21日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「きこうとしないわたし」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 6:1-13節

 宇多田ヒカルの「荒野の狼」という曲は、仲間内に閉じこもって、自分たちだけが正しく、人を非難することで自分たちが安心するといった人間の姿が歌われています。「惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら そうだそうだ お互いを肯定する輩 まずは仲間になんでも相談する男 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子 偽物の安心に悪者探し 私たちには関係ない」。

 仲間がいるということはとても楽しいことだし、わくわくすることでもあります。わいわいとやっていくことができれば、とても力になります。でも仲間内で固まることなく、開かれた形で、いろいろな人たちと交流するというのは、なかなかむつかしいことだなあと思わされます。

 イエスさまも故郷で、イエスさまのことを受け入れようとしない人たちに出会いました。弟子たちもまた弟子たちのことを受け入れてくれない人たちに出会うことがあるかも知れません。自分が大切にしていることを一生懸命に伝えるのに、だれもそのことに関心を持ってくれないのは、なかなかさみしいことであります。ですから腹が立ってきたりするようなことも起こります。怒鳴ってみたり、人のことを悪し様に言ってみたい気持ちになってくることもあります。でもイエスさまは弟子たちに、そうしたことをするのではなく、ただ「足の裏の埃を払い落として、その町を出て行きなさい」と言われました。過剰に反応して、腹を立てたりするのではなく、たんたんとそのこと受け入れて、次のところに進んでいけば良い。そうするとまたあなたたちのことを受け入れてくれる人たちがいる。

 仲間内で固まって、他の人の意見を聞こうとしないというのは、それはまた私たちの姿でもあるわけです。私たちもまたイエスさまの故郷の人たちや、イエスさまの弟子たちを受け入れなかった町の人たちのように、自分たちの世界に閉じこもって、外からの声に素直に耳を傾けることができなかったりすることがあるわけです。

 神さまの愛に守られて、私たちもまた愛に満ちた歩みでありたいと思います。人のことを悪く言ったり、自分の考えだけが正しいというような思い込みにとらわれるのではなく、どうすれば神さまの愛に応えることができるのかを考えながら、謙虚に歩んでいきたいと思います。


2026年6月20日土曜日

2026年6月14日

 2026年6月14日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「自分の家に帰りなさい」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 5:1-20節

 「いつもは、ちゃんとさっさと歩いて帰る子どもが、「おんぶして」というような日は、たいていは、ちょっと悲しいこととか、つらいことがあった日のことが多いのです。・・・。気持ちをいやしたいだけなのです。これは大人にもある感情でして、会社で仕事がうまくいかないことがあった、上司に怒られた、とてもいやなことがあった、取り引きで失敗したなどということがあったときに、家に帰って奥さんにいやされるご主人は、さっさと帰っていきます。」(佐々木正美さんの『子どもへのまなざし』)。帰る家があるということは、とても幸いなことなのです。

 イエスさまはゲラサの地で、汚れた霊に取りつかれた人に出会われます。この人は墓場を住まいとしていました。家族や身内、町の人たちから捨てられたのです。だれもこの人に関わりたくないと思っていました。そしてこの人自身ももはや家族や身内の人々のところに帰ろうとは思っていませんでした。しかしこの人は大きな悲しみを抱いていました。そして叫ばずにはいられませんでした。また自分で自分を傷つけずにはいられませんでした。

 イエスさまによっていやされたあと、この人はイエスさまに、イエスさまと一緒に行きたいと言いました。しかしイエスさまは「自分の家に帰りなさい」と言われます。そして「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。この人にはこの人を迎えてくれる人たちがいたのだと思います。「いままで辛い思いをさせてすまなかったねえ」と言って、この人を迎えてくれる家族がいたのだと思います。それでもこの人にとっては、それはとても大変なことだったと思います。しかしイエスさまによって救われたこの人は、イエスさまが自分にしてくださったことを、一生懸命に宣べ伝えました。

 私たちは幸せなことに、イエスさまによって救われたことを知ることができました。私たちはここに帰れば安心だ。ここに帰ればホッとするという家をもっています。つらいとき、かなしいとき、私たちは帰るべきところをもっています。私たちを慰め、いやしてくださる方を、私たちは知っています。

 イエスさまは私たちの慰め主として、いつも私たちを招いてくださっています。このことをしっかりとこころにとめて、よき小さなわざに励んでいきましょう。


2026年6月14日日曜日

2026年6月7日

 2026年6月7日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「この人をみよ」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:29-39節

 「自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない」(映画『アニー・ホール』)。なんとも屈折した感情です。自分は自分のことが嫌いであるわけです。ですからこんな自分を会員として認めるようなクラブはろくでもないクラブだから、そんなろくでもないクラブには入りたくない。

 この言葉は教会と似ているところと似ていないところがあります。自分のことを良い人だと思っていないところは似ています。でもちがうところは、私たちはやっぱりそれでも「このクラブの会員になりたい」という思いをもっている点です。神さまは「あなたのような人でも、わたしはあなたを愛している」と、私たちを受け入れてくださっています。私たちは自分を会員にするようなクラブであったとしても、やはりどうしてもこのクラブの会員になりたいと思うのです。

 イエスさまのことを慕う人々がどんどんどんどんイエスさまのところに集まってきます。イエスさまは、はじめはたまたま出会った汚れた霊に取りつかれた男をいやされます。そして次にイエスさまはペトロのおつれあいのお母さんをいやされる。身内の人をいやされたわけです。そしてこんどはカファルナウムの人々をいやされます。

 讃美歌21−280の「馬槽のなかに」は日本の讃美歌です。この曲の作詞をした、由木康は讃美歌学者です。イエスさまのご生涯をとてもうまく表している讃美歌となっています。この「馬槽のなかに」という讃美歌で繰り返し出てくる言葉は、「この人を見よ」という言葉です。この「この人を見よ」という言葉は、キリスト教において特別な言葉で、絵画などでもよく題名になっています。「この人を見よ」という言葉は、総督ピラトが言った言葉です。

 私たちは総督ピラトから、イエスさまのことを「この人を見よ」と言われているわけですから、なんとも不思議なことだと思います。洗礼者ヨハネから「この人を見よ」と言われたら、「そうですね。ほんと、そうです。すみません」というような思いになります。しかし私たちは総督ピラトから「この人を見よ」と言われています。「ピラト、あなたに言われたくはないよ」と思えるわけです。

 しかし大切なのは「この人を見る」ことなのです。私たちの救い主イエス・キリストをしっかりとみて、希望を持って歩んでいきましょう。


2026年6月5日金曜日

2026年5月31日

 2026年5月31日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「天からの祝福を受けて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:9-11節

 『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画の中で、アシュレイ・ジャッドという女優は、ハリウッドで大きな影響力をもっていた映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインを実名で告発するときに、「女として、キリスト教徒として」、告発しないわけにはいかないと言います。

 クレア・キーガンの「ほんのささやかなこと」という小説の主人公のビル・ファーロングも、アイルランドのカトリック教会と国家の犯罪を向き合おうとするとき、こう言います。「そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?」。

 日常生活のなかで、自分がクリスチャンであることが問われる出来事というのは、そんなにないわけですが、でもクリスチャンである私たちはときにそうしたことを考えざるを得ないときがあるわけです。そして「わたしは何者なのか」という問いの前に立つことがあるのです。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というのは、イエスさまの十字架への道を表わしています。イエスさまは神さまの御心に適う者として、神さまの独り子であるわけですが、私たちの世に来てくださる。そして私たちの罪のために、十字架についてくださいます。

 私たちはイエスさまのように、人の罪を贖うために十字架につくことはありません。ただ私たちには私たちにとっての神さまから託された歩みというのがあるわけです。そういう意味では、イエスさまに語られた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、私たちへ語られた言葉でもあるわけです。

 私たちはクリスチャンとして、自分を見たり、人を見たりするのではなく、神さまを見て歩みたいと思います。神さまがわたしを見ていてくださり、神さまがわたしを守ってくださっている。神さまがわたしを愛してくださり、わたしにふさわしい歩みを用意してくださっている。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という励ましの言葉を胸に、神さまの霊である聖霊の力を信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2026年5月29日金曜日

2026年5月24日

 2026年5月24日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「聖霊に導かれ」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 4:26-34節

 ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステの出来事の「ほかの国々の言葉で話し出した」というのは、たんに外国語を話したということではなく、相手の立場に立って、互いに尊敬しあう歩みを行なうということです。

 イエスさまは神の国は、成長する種のようなものであると言われました。作物の種を植えるとだんだんと大きになっていきます。茎が成長し、穂が実り、豊かな実となっていく。本質的には種を成長していくのは、神さまがなさることだと、イエスさまは言われます。イエスさまはからし種の話をされました。からし種はちいさな種だけれども、それが成長すると、鳥が葉の陰に巣をつくるほど大きな枝をはることができる。そのように、小さな良き働きが神さまに祝福されて、神さまの義と愛に満ちた神さまの国になっていく。

 私たちの世の中は、人間の世の中ですから、そんなに平和な世の中でもありません。いろいろな競争があったり、人を傷つけることがあったり、人から傷つけられるようなことがあったりもします。一生懸命に努力をしても、うまくいかないこともあります。とくに現代は、競争社会となり、個人主義的な価値観が広がり、神さまの霊である聖霊が、私たちの世の中に働いているとも思えないというような気持ちになるときもあります。

 みなさんは、最近、私たちの世の中には聖霊が働いているというふうに感じたことはありましたでしょうか。卑近な例で申し訳ないのですが、わたしは最近、「プラダを着た悪魔2」という映画を見ながら、私たちの社会には聖霊が働いているというふうに思いました。もちろん現代アメリカの社会が描かれているお仕事映画であるわけですから、仕事の上での駆け引きがあったり、キャリアアップを目指していく歩みがあるわけです。それでもそうしたなかにあっても、人を思いやる気持ちや、信頼しあうこころ、競いながらも和解をして友だちとして受け入れあっていく歩みがあります。やっぱり、人の世界の根幹にあるものは、「愛」であるということを感じることができ、なんかとてもさわやかに気持ちがいたしました。

 私たちの世界は、神さまの愛が働いている、聖霊の働きに導かれた社会です。そしてイエスさまの弟子たちに降った聖霊は、私たちにも同じように降ります。私たちは神さまの霊である聖霊による祝福を得て生きています。神さまの愛を信じて、今日、私たちにくださった聖霊の導きによって、健やかな歩みをしていきたいと思います。に出会う歩みへと招かれたい。


2026年5月23日土曜日

2026年5月17日

2026年5月17日 復活節第7主日礼拝説教要旨

「イエスさまの祈り」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 17:1-13節

 西方キリスト教会最大の教父と言われるアウグスティヌスは偉大な聖人であると言われるわけですが、少年時代には友だちと一緒に物を盗んだり、勉強をなまけて遊んだりしています。また青年時代にはもっともっと悪くなり、欲望のままに女性に溺れていったり、キリスト教から離れてマニ教をいう異端を信じたりと、なかなかたいへんなワルでした。

 母モニカはアウグスティヌスのことが心配でたまりません。モニカはアンブロシウスに、アウグスティヌスが悔い改めるようにと働き掛けてほしいとお願いします。アンブロシウスはモニカにこう言いました。「しかし、子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい。そうすれば、子供さんは、自分で本を読んで、その誤りがどのようなものであるかを、またその不信がどのように甚だしいかを、さとるだろう」「さあ、帰ってもらおう。あなたのいのちに掛けても、そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。モニカは祈り続け、アウグスティヌスは悔い改めます。

 祈りということは、現実的ではないですし、一見愚かにも思えることです。「祈って何になる」。そんなふうにも思えたりします。しかしアウグスティヌスをまっとうな道へと導いたのは、母モニカの愚かにも思える祈りであり、涙であったのです。一見、力のないように思える涙と祈りが、放蕩三昧を繰り返していたアウグスティヌスを、まっとうな道へと導いたのでした。

 『育てるものの目』(婦人之友社)という本を書いておられる、保育士の津守房江さんは「私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う」と言われます。

 私たちの世界は、祈りによって支えられています。放蕩三昧を繰り返すアウグスティヌスのために祈る母モニカの祈り。子どもたちの健やかな成長を願う母・津守房江の祈り。イエス・キリストの祈りは、そうした私たちの祈りを結び合わせ、包み込む祈りなのです。

 私たちの罪のために、十字架についてくださったイエス・キリストは、十字架によってすべての絶望を希望に変えてくださいました。イエスさまはいまも、弱い私たちのために祈ってくださっています。私たちの弱さ、悩み、苦しみを、イエスさまは知っていてくださり、「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう」と、いつも私たちを招いてくださっています。


2026年5月16日土曜日

2026年5月10日

 2026年5月10日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「生まれてきてよかった」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 16:12-24節

 今日は5月第二週の日曜日で、母の日です。カナの婚礼の物語(ヨハネによる福音書2章1節以下)を読むと、イエスさまとマリアさんの親子関係があまりよくないような印象を受けます。マリアさんはイエスさまのことをいつも心配していただろうと思います。そしていろいろあるにしても、イエスさまが「生まれてきたよかった」と思えるような人生であってほしいと思っていたと思います。

 良い季節ですから、宝ヶ池に散歩に出かけます。宝ヶ池では幸せそうな人たちがいます。池を背景にして、スマホで自撮りをしているカップル。池の近くにシートを敷いて、お弁当を食べている若者二人。小さな幸せを楽しんでいる人たちを見ながら、「よかったね」と思えるのは、とても幸せなことだなあと思います。人の幸せをみても、「よかったね」と思えないときというのもあるわけです。自分がつらい思いをしているときは、なかなか「よかったね」と思えません。自分だけがどうしてこんな目にあわなければならないのだろうか。みんな幸せそうにしているのに、どうして自分だけが不幸なのだろうか。とても人の幸せをみて、「よかったね」と思えない。そんなときも、私たちはあるわけです。

 イエスさまは「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われました。イエスさまは弟子たちに、わたしがいなくなり、あなたたちは大きな悲しみを経験する。しかしわたしはよみがえり、あなたたちと再び出会うことになる。そしてあなたたちは、こころから喜ぶことになるのだと言われます。そしてその喜びは神さまがあなたたちに対して与えてくださる喜びであるので、けしてそれが消えてしまうことはない。わたしがよみがえるそのときに、はじめてすべてのことが、あなたたちのうちで理解されるようになり、大きな喜び、大きな安心にあなたたちは満たされる。どんな不安ななかにあっても、神さまはあなたと共にいてくださる。だからわたしの名によって神さまに願いなさい。神さまがすべてのことを導いてくださるから大丈夫だ。神さまにお委ねして歩みなさい。そうすればあなたたちは喜びで満たされることになる。

 「生まれてきてよかった」。イエスさまは私たち一人一人がそのように思える人生であってほしいと願っています。そして私たちが悲しいとき、さみしいとき、いつも私たちの傍らにいてくださり、私たちを守ってくださっています。「その悲しみは喜びに変わる」、大丈夫、わたしがいるから。安心して歩んでいきなさい。イエスさまの慰めの言葉に励まされ、また新しい歩みを始めたいと思います。


2026年5月8日金曜日

2026年5月3日

 2026年5月3日 復活節第5主日礼拝説教要旨

「イエスさまにつながって生きる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 15:1-11節

 わたしが高松で大学生活を送っていた時、まだ瀬戸大橋はできていませんでした。瀬戸大橋ができて、便利になったなあと思います。四国に住んでいた者としては、やはりつながるということは、なかなか安心なものだと感じます。ただ橋ができることによって、経済的な発展がなされたかというとそうでもありません。四国の電車の本数はどんどんと少なくなりました。安易につながるのではなく、やはり自分がどういうものを基盤として生きていくのか、何につながっていきていくのかということをしっかりと考えるということも大切なのだと思います。

 ぶどう畑やぶどうの木は、イスラエルにおいては、選ばれた民の象徴として用いられています。しかしイスラエルは神から選ばれた民であったのに、神から離れていくことがしばしばありました。そうしたことがイザヤ書5章1節以下には書かれています。

 イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木」、そして「わたしにつながっていなさい」と言われます。これほどイエスさまにつながっていることが強調されるのは、ヨハネによる福音書の書かれた時代に、ひとつには理由があります。ヨハネによる福音書の書かれた時代は、ユダヤ教の一派であるとされていたキリスト教が、ユダヤ教から異端であるとされた時代です。そのためいったんクリスチャンになっていながら、またユダヤ教のほうに帰っていった人々が出てきています。ですからヨハネによる福音書が書かれた時代の人々は、「イエス・キリストにつながっている」ということが大切になってきました。そしてそうした時代の中で、「まことのぶどうの木とは誰であるのか」ということが、真剣に問われたのです。

 そうした事情がありますが、それでもこの聖書の箇所は、私たちにやすらぎを与えてくださる箇所です。イエス・キリストに依り頼むことの確かさを豊かに表わしてくれています。イエス・キリストにつながって生きるということは、生き生きと自分らしく生きるということです。「クリスチャンとしてこうしなければならない」という思いに縛られて、自分では何もできない奴隷のようなつながりということでもありません。イエス・キリストは私たちを自分らしく生き生きといかしてくださいます。私たちはイエス・キリストにつながって生きていると、私たちは自分が神さまに愛されているかけがえのない一人であることを知ることできます。そして自分らしく生きていくことができるのです。


2026年5月1日金曜日

2026年4月26日

 2026年4月26日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「なんかとってもほっとするよね」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 13:31-35節

 『ことりっぷ』などの観光本のなかには、名所・旧跡だけでなく、おしゃれなカフェなど、雰囲気のよい写真と共に掲載されています。「なんかとってもほっとするよね」というような感じが大切なのだと思いました。

 イエスさまは弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。弟子たちにとって「互いに愛し合う」ということは、「互いに赦し合う」ということでもあります。このあと、弟子たちはイエスさまを裏切ります。そしてみんな自分たちのことが信じられなくなります。イスカリオテのユダが、イエスさまを裏切ったように、あいつもわたしを裏切って、自分だけ助かろうとするかも知れないという思いに引きずり込まれます。そして逆に自分が裏切れば、ひとりだけ助かることができるのではないかという思いも出てきます。そしてそんな恥ずかしい思いをもつ人間であることに気づかされ、自分のことが嫌いになります。弟子たちはそうしたなかにあって、復活のイエスさまに出会い、イエスさまの新しい掟、「互いに愛し合う」ことを大切に歩んでいきます。「互いに愛し合い」「互いに赦し合う」。そしてそうした暖かい交わりを見て、人々がイエスさまの弟子である幸いを感じるようになります。

 私たちはキリスト教を伝えていくにはどうすれば良いのだろう。私たちの教会に新しい人が来てくださるにはどうしたら良いのだろうと思います。聖書はその方法について語っています。ヨハネによる福音書13章35節の言葉です。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」。

 私たちが互いに愛し合っているということが大切であるということです。「ああ、やっぱりいいよね。この教会。みんな互いに愛し合い、敬いあっている感じがする」。そのように思われることによって、多くの人々が教会に集うようになったということです。怒鳴り合い、非難し合っていたヨハネの教会が、そうではなく互いに愛し合い、そこに集う人々が安らぎを感じる場にしていったように、私たちの教会もまた安らぎを感じることができる教会でありたいと思います。「なんかとってもほっとするよね」。みんながそんなふうに感じることのできる教会の歩みをこれからも続けていきたいと思います。


2026年4月24日金曜日

2026年4月19日

 2026年4月19日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「良い羊飼いに導かれ」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 10:7-18節

 人生のなかには良き出会いというものがあり、この人に出会うことによって自分の人生が変わったと思えるような人に出会うということがあります。

 イエスさまは「わたしは羊の門である」と言われます。イエスさまは門で、イエスさまを通って入る者は救われるということです。どこの国でもいつの時代でも、自分のために政治を行っている国の指導者たちがいるわけです。おかしなことをしていても、自分たちのやっていることを正当化します。盗人のような指導者です。そういう人たちのところに行くのではなく、わたしのところに来なさいと、イエスさまは人々を招かれました。

 イスラエルの指導者たちが民のために政治を行おうとしないので、人々は疲弊し、苦しんでいます。預言者エゼキエルは「牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」(エゼキエル書34章8節)と、イスラエルの指導者たちを非難します。イエスさまの時代のユダヤの指導者たちも、そうでした。民のために政治を行おうとせず、自分たちのための政治を行っていました。良い羊飼いがほしいのだと、人々は思っていました。それで、イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と言われるのです。

 私たちにとって、イエスさまは単なる指導者や導き手と違うのは、イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。「この人についていきたい」ということとは別なこととして、イエスさまには「わたしは羊の門である」ということがあります。羊の門であるイエスさまを通して、私たちは神さまの前に赦され、神さまの民として歩むことができるのです。イエスさまは私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖い、私たちを神さまのところに連れて帰ってくださるのです。

 イエスさまに委ねてあゆむとき、私たちは幸いな人生を歩むことができます。イエスさまは私たちのことをよく知っていてくださいます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。私たちは弱いところもありますし、またいいかげんなところもあります。熱しやすく冷めやすく、安物の器のようなところもあります。それでも私たちはイエスさまが私たちのことを愛してくださっていることを知っています。イエスさまが私たちにとっての慰め主であることを知っています。悲しい時、さみしい時、私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださる方であることを知っています。主イエス・キリストに導かれ、良き人生を歩みたいと思います。


2026年4月18日土曜日

2026年4月12日

 2026年4月12日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「疑いは幸いに変わり」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:19-31節

 わたしはガスの栓をしめただろうかとか、ストーブをちゃんと消しただろうかとか、たいへん気になる性分です。そのことのために時間をとり過ぎるので、「見ないで信じるものは幸いである」という気がします。

 聖書にはイエスさまの復活の出来事を疑ったということが出てきます。わたしはこの話を読みながら、ほっとします。そういう意味で、今日の聖書の箇所に出てきますトマスという人は、のちのキリスト者にとって、ほんとうに良き働きをした人だというふうに思えます。

 イエスさまの弟子たちは、復活のイエスさまご自身と出会い、生ける力を与えられたのですが、しかしそのとき、たまたまいなかった弟子がいました。それがトマスでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ってしまいます。

 イエスさまは疑り深いトマスのところにも来てくださいました。イエスさまはトマスの疑を責めるのではなく、「あなたがわたしの手のきずに指を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい。あなたがわたしのわきのきずに手を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい」というふうに言われたのです。イエスさまは、疑り深いトマスのところに降りてきてくださいました。疑り深いトマスを見捨てられるのではなく、トマスが信じることができるようになるためであれば、どんなことでもいとわないというふうに言われたのです。

 聖書が語ることは、「疑ってはいけない」ということではありません。「疑うものは神さまから裁きを受ける、神さまは信じられない者を裁かれる」ということではないのです。疑ってはいけないということではなく、疑っている私たちを許してくださる神さまがおられるということが大切なのです。

 私たちは疑い深い者であるかも知れないけれども、神さまはそういう私たちの疑いを幸いに変えてくださるかたなのです。私たちをとらえて離さない神さまの愛によって、私たちは見ないで信じる者へと導かれていくのです。疑いは幸いに変わるのです。自分たちのちっぽけな信仰などをあてにするのではなく、疑っても疑っても、私たちを愛してくださる、神さまの愛を信頼して歩んでいきましょう。


2026年4月10日金曜日

2026年4月5日

 2026年4月5日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「不安が取り除かれる朝」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 16:1-8節

 イースターおめでとうございます。

 マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまの葬りの備えをするために、イエスさまが納められた墓に向かいます。イエスさまが天に召されたのだから、丁寧に葬りの備えをしなければならない。その役割を担ったのは、女性たちでありました。イエスさまの弟子たちは、いろいろと大きなことを言っていたわけですが、イエスさまが捕まった時に、逃げ出し、そして隠れています。

 マルコによる福音書が記しているイエスさまの復活の物語は、とても奇妙な物語です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。イエスさまのご復活という喜ばしい出来事を伝えるにはほどとおい、とても不思議な語りになっています。不思議というよりは、怖いという語りになっています。

 マルコによる福音書のイエスさまの復活物語は、「信仰というのはこういうものなのだ」ということを、私たちに教えてくれます。人が信じるというのは、「はい、そうですか。わかりました」というようなものではないということです。「信じますか」「はい、信じます」というようなことではないということです。

 『信仰』(2022年、文藝春秋)という小説を書いている小説家の村田沙耶香は、「速度の速い正しさは怖い」と言っています。キリスト教の信仰はそうした早さのある信仰ではありません。「信じますか」「はい、信じます」「はい、そうですか。わかりました」というようなものではありません。イエスさまの復活に出会った女性たちは、驚いたり、震え上がったり、正気を失ったり、怖がったりしながらも、でも神さまに導かれて、信じる者へと招かれていきます。そしてイエスさまに従っていきます。

 私たちは人間ですから、いろいろなことにつまずきます。自分の力を越えた出来事を前にして、「どうしよう」「ちっぽけなわたしに何ができるだろう。なんにもできないのではないか」。そんな思いになります。でも小さな小さなわたしに神さまが働いてくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。

 力強い御手でもって、私たちを守り導いてくださる神さまがおられます。小さなわたしを励まし、用いてくださる神さまがおられます。神さまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2026年4月3日金曜日

2026年3月29日

 2026年3月29日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「神に委ねたいのち」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 15:33-41節

 良寛の辞世の歌・句については、いろいろな説があります。「形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」「うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ」「散る桜 残る桜も 散る桜」「良寛の辞世を何と人問はば死にたくないといふたとしてくれ」「師即開口阿一声耳。端然座化」。

 イエスさまの死について、それぞれの福音書がそれぞれに、イエスさまの死について書いています。マルコによる福音書のイエスさまは、大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 イエスさまは十字架のうえで嘆くのは、イエスさまが私たちと同じように、苦しみの極限を経験されたということです。そして私たちと同じように、神さまに対して嘆きの声をあげて、天に召されていった。そのことによって、私たちは同じように神さまに対して嘆きながら生きている私たちをも、神さまは受け入れてくださり、愛してくださっていることを知ることができるのです。十字架のうえで嘆くイエスさまは、すべてを神さまにゆだねているしるしです。神さまの前では、格好のよさなど必要ない。神さまの前では、自らのすべてをさらけ出し、どろどろとした心のなかをすべて神さまにお見せしてもかまわないということです。どろどろとした罪のなかにあっても、神さまは私たちを愛し、祝福してくださっている。

 私たちの神さまは、苦しみのなか叫び、泣き言をいう弱さをも受け入れてくださる神さまです。私たちひとりひとりをそのままで愛してくださり、私たちを憐れんでくださるかたなのです。詩編31編23節は、つぎのように神さまを讃美しています。「恐怖に襲われて、わたしは言いました『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました」。

 イエス・キリストは十字架への苦難の道を歩まれました。絶望にみえるその道こそが、私たちにとって希望であります。私たちの主イエス・キリストは、すべてを神さまにゆだねて歩まれました。なにもかも神さまにゆだね、神さまから与えられたいのちを、神さまに返されました。私たちも主イエス・キリストと共に、すべてを神さまにゆだねて歩んでいきましょう。私たちの弱さを受け入れ、私たちの罪をイエス・キリストの十字架によって赦してくださる神さま。私たちを赦し、祝してくださる神さまに感謝して、すべてを神さまにゆだねていきましょう。


2026年3月27日金曜日

2026年3月22日

 2026年3月22日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「あなたのほしいものは何ですか」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 10:32-45節

 「マダム・イン・ニューヨーク」というインド映画の主人公のシャシという女性は、「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」と言います。シャシは二人の子供と夫のために尽くすけれども、英語がはなせないということで、ときどき家族からも失礼な振る舞いをされたりします。そのためシャシは「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」と言うのです。人によって、また年齢によって、状況によって、ほしいものはさまざまでしょう。イエスさまは今日の聖書の箇所で、「あなたのほしいものは何ですか」と問われます。

 ヤコブとヨハネは、イエスさまに「イエスさまがえらくなったときは、私たちを特別に用いてください」とお願いをします。ヤコブやヨハネがイエスさまに自分たちの出世を願い出たことについて、他の弟子たちは腹を立てます。イエスさまは弟子たちを諭されます。みんな知っていると思うが、世の中では支配者と見なされている人々が民を支配し好き勝手なことをしている。偉い人たちが権力をもって、人々を虐げている。そんな世の中、あなたたちはどう思うのか。そんな世の中でいいのか。世の中は力やお金で動いているけれども、あなたたちのなかはそうであってはだめだ。偉くなりたい人はみんなに仕える人になってほしい。わたしもまたそのように生きている。わたしは人々の罪のために十字架につくために、この世に来たのだ。

 イエスさまはヤコブとヨハネに「何をしてほしいのか」「あなたのほしいものは何ですか」と問いかけられました。ヤコブとヨハネは「出世したい」「えらくなりたい」と答えたわけです。でもイエスさまは「あなたのほしいものと、あなたが本当に必要としているものは、おなじものではない」と言われます。あなたのほしいものは、出世することやえらくなることかも知れない。でもあなたが本当に必要としていることは、そうしたことではない。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。あなたが必要としていることは、謙虚な思いになって、隣人と共に歩んでいくことだ。神さまが喜ばれる生き方をしてほしい。

 レント・受難節も第五週を迎えました。私たちはイエス・キリストの歩みを、こころに深く受けとめたいと思います。イエスさまは仕えられるためではなく仕えるために来られました。そのイエスさまの愛の姿を、こころに受けとめて、私たちもイエスさまの愛にふさわしい歩みでありたいと思います。


2026年3月21日土曜日

2026年3月15日

 2026年3月15日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「イエスさまは十字架へと歩まれた」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:2-10節

 十字架というものは不思議なもので、刑罰の道具であったものが、いまではジュエリー・アクセサリの形として使われています。十字架はイエスさまが十字架につけられたことによって、栄光のしるしとなりました。

 「イエスさまの姿が変わる」という山上の変容の出来事は、神の御子であることを表す出来事です。イエスさまが神々しい姿で、エリヤとモーセと一緒に語り合っているというのは、いわば天上でのイエスさまの姿です。それは栄光に満ちています。ペトロたちがうれしがるのも無理はないことです。ただ地上でのイエスさまが神さまから託されていることは、ぼろぼろになって十字家につけられるということです。

 しかし神々しいイエスさまの姿は天上の姿であって、それは地上での姿ではないのです。結局、エリヤやモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられます。そして天の声は「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と響きます。神さまは十字架への道を歩まれるイエスさまこそが、わたしの愛する子だと言われます。

 フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という聖書の箇所があります。私たちは輝かしいものやりっぱに見えるものに目が向きがちです。そのことがすべてが悪いということもないと思います。やっぱり人間、りっぱになりたいと思いますし、また輝かしい栄光を求めて一生懸命になるということも大切なことだと思います。ただそのことがすべてのことについての価値基準になるとき、やはりすこしおかしなことが起こってきます。何でも手に入れることにだけ心が向いてしまい、自分が自分がという気持ちが大きくなってきます。何でも自分が中心となり、高慢な思いに取りつかれてしまいます。使徒パウロは、イエス・キリストはそうした生き方とは正反対の生き方をされたと言っています。イエスさまは神の身分であったけれども、自分を無にして僕の身分となられた。イエスさまは死に至るまでへりくだり、私たちのために十字架についてくださった。

 受難節、イエスさまの御苦しみを覚えて、私たちは歩んでいます。私たちは、イエスさまが十字架へと歩まれたということを、私たちの心の指針としてしっかりと持っていたいと思います。世は移り変わり、いろいろなものが起こっては消えていきます。しかし消え去るものではなく、永遠なるものに、私たちは心の中心を向けたいと思います。


2026年3月13日金曜日

2026年3月8日

 2026年3月8日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「イエスさまがいつも一緒に」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:27-30節

 周りの人が、何をしているのかということは、とても気になることです。こどもだって、周りのことが気になります。「○○の映画に連れて行って。みんないってる」。大人も周りが気になります。「ひろむは、もう字がかける」とか。しかし人の子と比べることよりも、私たちは「自分の子をしっかりと見る」ということが大切であるわけです。そして私たちが、何を大切に生きているのかを、はっきりともっていることが大切です。わたしにとって大切なことは、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということです。ほかのことは、自信をもっていうことができませんが、このことだけはだけは、わたしは自信をもっていうことができます。

 イエスさまは「わたしのことを人は、いろいろと言っているけれども、あなたはどう思うのか」と、弟子たちに問われました。「人はいろいろと言っているだろう。でも、あなたはどう思うのか」。そんなふうにイエスさまは問われました。そして使徒ペトロは、「あなたは、メシアです」。「あなたはわたしにとっての救い主です」と、使徒ペトロは答えました。

 イエスさまは言われます。「周りを見回すだけでは、大切なことは得られないんだ」。「どうだペトロ、おまえはどう思うんだ」「ペトロ、おまえはどう生きるんだ」。そんなふうにイエスさまは、使徒ペトロに問われたのでした。そしてペトロはなかなか立派な答えができたわけです。

 しかし、まあこう言いながらも、結局、使徒ペトロはイエスさまを裏切って、イエスさまが十字架につけられるのを、見殺しにしてしまったわけです。人間はそうした弱さをもっています。しかしそのあと、ペトロは十字架につけられ、よみがえられたイエスさまと出会い、やっぱりイエスさまに付き従う歩みをしました。苦しいとき、悲しいとき、もうだめだと思えるとき、使徒ペトロを支えたのは、救い主イエス・キリストだったのです。ペトロは裏切ったけれども、イエスさまはペトロを裏切りませんでした。いつもペトロを支え、励まし、導き、その生涯を守り、弱いペトロを神さまへと導かれたのでした。

 私たちはひとりで人生を歩んでいるのではなくて、いつもイエスさまが一緒に歩んでくださっています。そしてわたしはそのことを知っているのです。イエスさまと共に歩みましょう。イエスさまは私たちが崩れ折れそうなときも、私たちをしっかりと抱きしめ、私たちと共に歩んでくださいます。