2023年2月18日土曜日

2023年2月12日

 2023年2月12日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

 「神の名を語る人、神を讃美する人」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 5:12ー26節

 「植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている」(石川九楊、『<花>の構造ー日本文化の基層ー』)。ついつい下を向いて、つぶやくことの多いわたしは、「たしかに植物は天に向かって伸びているなあ」と思います。

 イエスさまが中風の人をいやされるときに、「あなたの罪は赦された」と言われたことについて、律法学者たちやファリサイ派の人たちが、心の中で考え始めました。「あなたの罪は赦されたなどというのは、神さまを冒涜することだろう。神さまのほかに誰が罪を赦すことができるというのだ。イエスという男は自分が神さまにでもなったつもりなのか」。

 律法学者たちやファリサイ派の人たちは、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と言います。「イエスは神の名を語っている」というわけです。しかし律法学者たちやファリサイ派の人たちこそ、神の名を語っているのです。自分たちは神さまの側の人間であり、「あの人は神を冒涜している」「あの人は罪を犯している」と言って、神の名を語っているのです。

 現代においても、人を裁く時に、しばしば神の名を語る人がいます。「こうしたことは聖書に罪として書かれてある」というように語って、「特定の人々が罪を犯している」と言うのです。しかしモーセの十戒には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)に書かれてあるのです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の名を語り、そしてイエスさまを裁きます。しかし一方、多くの人々は、みんなイエスさまのされたことを見て、神さまを賛美します。神の名を語る人、神を讃美する人がいるのです。

 小さなことが気になってしまい、大切なことを見失ってしまうことが、私たちにはあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそうでした。彼らは人を裁くことに関心がいってしまい、神さまを賛美することを忘れてしまっていました。それはとても残念なことです。

 花の多くは天を向いて、枝を広げ、花を咲かせます。私たちもまた天を向いて、神さまを賛美して歩んでいきたいと思います。神さまが用意してくださるたくさんの恵みに感謝して、神さまに向かって歩んでいきたいと思います。


2023年2月9日木曜日

2023年2月5日

 2023年2月5日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

 「種を蒔いたらどうなるか」 前川裕牧師

  ルカによる福音書 8:4-8節

 イエスは「たとえ話」が上手でした。イエスは大工(家具造りなども含む)という、人々の生活に密着した仕事をしていく中で、人々がよく分かるような「たとえ」の対象を思いついていったのでしょう。「種蒔きのたとえ」は有名なものですが、現在の聖書ではそれぞれの種はこういう人のことである、という説明がついています。これは本来イエスが語りたかった意味ではなさそうで、のちに教会がつけていったものと考えられています。

 イエスが語ったのは、農業に携わる人たち、またガリラヤに生きる人たちが実際に経験していたことでしょう。ここでの種蒔きは現代からすればずいぶん大雑把に思えますが、しかし19世紀に描かれたミレーの絵「種を蒔く男」も同じ姿です。聖書のスタイルの農業はつい150年ほど前まで続いていたようです。道に落ちた種を踏んだ経験のある人たちも多かったでしょう。岩の上に落ちれば芽が出てもすぐ枯れてしまうさまや、茨などの雑草に埋もれてしまうのも通りがかりの人たちが見ていたと思われます。しかし良いところに落ちると、一粒の種が百倍の実りを結ぶと言います。たった一粒から大きな実りが生まれるという驚き、神の国もそのようなものであるというのがイエスの主張だったと考えられます。

 人間は「因果関係」を考える性質があります。それは「あれを食べると苦しむ」のように、身を守るために必要だった能力でしょう。しかし私たちは、「これこれを実行したのだから何かの結果があるに違いない」と考えてしまいます。「種を蒔いたのだから、全ての種に百倍の実りがあるはずだ」というわけです。しかし今日の「たとえ」にあるように、「種を蒔いたらどうなるか」という結果は、私たちには分からないのです。それは人知を超えたこと、まさに神の働くところです。

 では、結果が分からないのだからといって、私たちは何もしなくても良いのでしょうか。「種を蒔く人」は、文字通り「種を蒔いて」います。その結果は分からないけれども、それでも種を撒き続ける。多くの種は実を結ばないかもしれない。しかし「百倍の実り」がある可能性を信じて、種を蒔き続けます。それこそが、私たちに求められている信仰と言えるでしょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。


2023年2月3日金曜日

2023年1月29日

 2023年1月29日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

 「神の神殿は、生きているか」 汐碇直美牧師

   ルカによる福音書 21:1-6節

 ナチス・ドイツ時代の牧師・神学者、ボンヘッファーは「他者のための教会」という印象的な言葉を残しました。つまり教会は、神さまと人に仕えるために存在しているということです。

 ルカ福音書21章5節以降で主イエスは神殿のあり方を問われ、その建物は神殿の本質ではないと指摘されました。「教会」を意味するギリシア語「エクレシア」の本来の意味は「集会」です。どれだけ立派な建物があっても、そこに神さまを礼拝する人々が集っていない限り「教会」とは呼べません。

 今日のみ言葉の前半部分、「やもめの献金」の物語は、教会、つまり礼拝する人の内実を表しているものです。ある貧しいやもめが、彼女の全財産であったレプトン銅貨2枚をささげました。1レプトンは今の日本円で約78円、2レプトンで約156円です。ユニセフの定める「極度に貧しい暮らし」は1日1.9ドル、約200円以下で生活しなければならない状態ですから、それに近い状況です。

 このささやかな献金に目を留めたイエスさまは、「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」とおっしゃいました。「生活費」に当たるギリシア語「ビオス」は元々は「命」や「生活」「人生」という意味です。イエスさまは金額の大小という「目に見える部分」ではなく、彼女が自分のすべてをささげた、その「心」を見られたのです。

 やもめの状況をリアルに想像するほどに、その厳しさの中で2レプトンをささげた彼女のすごさがわかり、「私にはできない」と尻込みしてしまいます。しかしそれでイエスさまの招きを拒んでしまうのは、あまりにももったいない。私たちも実は毎週の礼拝献金で彼女と同じように、お金だけではなく、体、心、たましいも含めた「私」という存在の全てをおささげしているはずなのです。

 最初に、教会とは神さまと人に仕える存在だとお話ししました。それはまるで十字架のように、神さまに向かう垂直方向の献身と、隣人に向かう水平方向の献身の二つがあるということです。関西労働者伝道委員会と専従者の大谷隆夫先生の場合は、釜ヶ崎の労働者という横方向への献身であり、この隣人への奉仕を通して、神さまに仕えておられます。

 「教会は生きているか」と、主イエスは問われます。実に厳しい問いです。しかしイエス・キリストは十字架と復活というみ業によって、神さまと隣人に仕え、共に生きる道を切り拓いてくださいました。感謝と祈りをもってこの道を一筋に、共に歩んでまいりましょう。に出会う歩みへと招かれたい。


2023年1月26日木曜日

2023年1月22日

 2023年1月22日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

 「悲しむ人たちへの良き知らせ」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 21:1-6節

 平安教会創立の関連牧師である新島襄は、1890年1月23日に帰天しています。明日が帰天日です。新島襄で有名な話は、「自責の杖」の話です。この出来事を原田助や堀貞一は、感動をもって受けとめています。しかし徳富蘇峰はあまり良いようには受けとめていませんでした。同じ出来事を経験しても、その感じ方というのはやはりいろいろなのだなあと思います。イエスさまについても同じように、イエスさまはすばらしいと思った人と、そうでもなかった人たちもいたようです。

 イエスさまが育たれたナザレですから、イエスさまが小さい頃のことを知っている人たちが大勢いたのです。またイエスさまのお父さんのヨセフさんのこと、マリアさんのこと、そしてイエスさまの家族のことを知っている人たちが大勢いました。そうした人たちはあまりにイエスさまのことが身近に感じられるので、イエスさまのことを信じることができないわけです。「この人はヨセフの子ではないか。」。そんな大した人間であるわけがないと思えるのです。

 イエスさまもそうしたことがわかっているので、ちょっと斜に構えたような話をしています。あなたたちは「イエス、お前はカファルナウムでいろいろな奇跡を行なったわけだから、地元であるナザレでも同じようにしてくれよ」と言うだろう。「いや、わかっている。預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」。「あなたたちはわたしのことを敬おうというような気持ちはないだろうし、わたしを信じることはないだろう」。イエスさまはそのように言われました。

 イエスさまはユダヤの会堂で、イザヤ書61章1節の「貧しい者への福音」という表題のついている聖書の箇所を読まれました。イエスさまは自分がこの世にきたのは、貧しい人々に福音を告げ知らせるためなのだと言われたのです。あなたたちのような小手先の関心ではなく、心の底から神さまを求めている人たちに対して、神さまの祝福がその人の上にあると告げるのだと、イエスさまは言われました。

 イエスさまは言われます。【「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる】(ルカによる福音書6章20節以下)。

 さみしいとき、かなしいとき、イエスさまは私たちにともなってくださり、私たちの涙をぬぐってくださいます。イエスさまと共に安心して歩んでいきましょう。


2023年1月21日土曜日

2023年1月15日

 2023年1月15日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

 「舟を岸へ引き上げて」 山本有紀牧師

  ルカによる福音書 4:16ー30節

 私たちは、人生の中で何度も、息をすることさえ忘れるような驚きを体験することがあります。満天の星空、日の出の光景、壮大な地形、或いは奇跡的としか言いようのない「救い」の体験は、私たちを鷲掴みにし、畏怖と驚愕を与えます。その聖なる「驚き」は私たちを打ち砕き、へり下らせ跪かせるでしょう。そうして私たちは、今までとは違う世界観、人生観を得、新しい価値観へと「方向転換=悔い改め」して行くのです。飼い葉桶の幼児を見つけた羊飼いたちも、輝く星に導かれた賢者たちも、イエスの洗礼を目撃した人たちも、そして、ナザレのイエスが福音を語り人々を癒すのを見た人たちも、深い、聖なる驚きにとらえられ、打ち砕かれ謙って跪き、やがて、今までとは違う、新しい人生を歩み始めたのでした。最初の弟子となった4人の漁師たちもまた、この聖なる驚きを体験し、畏れを伴う激しい驚きに鷲掴みにされ揺さぶられて、新しい人生を、イエスと、そして同じ体験を分かち合う仲間と共に歩み始めるのです。

 その朝、イエスはガリラヤ湖の岸辺を歩いていました。そこへ多くの人がイエスを求めて押し寄せてきます。そこでイエスは、夜通しの漁の後、疲労困憊するペトロの舟に乗り込み、水上から人々に語りました。ペトロにしてみればいい迷惑だったでしょうが、人々は話に聴き入り、小一時間ほど後、イエスが語り終えるころにはすっかり満たされた様子となります。その頃合いに、イエスがペトロに一対一で語りかけます。「湖の深いところへ漕ぎ出して網を下ろしてご覧」。

 イエスの促しに抵抗を示しながらも「しかし、お言葉ですから」と、不信や諦めと、一方で、「ひょっとしたら、昨晩とは別の結果が出るかもしれない」という根拠のない期待が入り混じる曖昧な気分のまま、ペトロはイエスの「馬鹿げた提案」に付き合うくらいのつもりで網を降ろしたに違いないでしょう。すると、そこには今まで経験したどんな大漁とも違う、驚くべき体験が待っていました。

 ルカ福音書のギリシャ語の通りに読めば、まさに「驚きが、ペトロを掴んだ」のです。ペトロ自身の能力にも知識にも、もちろん信仰の有無にも全く左右されない、「聖なる驚き」がペトロを鷲掴みにし、彼を圧倒し打ち砕き、へりくだらせ、方向転換=悔い改めを迫りました。

 驚きと畏れに打たれて立ちすくむペトロに、イエスは「恐れることはない」と声をかけます。聖なるものとの出会いを恐れるべきではない、その体験によってもたらされる新しい価値観を受け容れること、そしてそこから始まる新しい人生へと歩み出すことを恐れてはならない、あなたはその恵に相応しい、とイエスは語りかけたのでした。その言葉に押し出されて、ペトロたちは、「舟を岸へと引き上げ」新しい人生、新しいし時間へと歩み出すのです。

 聖なる驚きに鷲掴みにされた仲間と共に、イエスと共なる旅を始める、その道を選び続ける者でありたいと願うものです。「恐れることはない」のですから。


2023年1月13日金曜日

2023年1月8日

 2023年1月8日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

 「洗礼。新しいいのちへ」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 3:15ー22節

 もう23年も前の話になりますが、わたしの母は病床洗礼を受けました。わたしの母はアルツハイマー病でしたので、自分の意志で信仰告白を行うことはできませんでした。一般的な印象からすると、「もう洗礼を受けなくてもいいのではないか。神さまは母のことをよくわかってくださっているのだから」とも思えます。しかしそれでも敢えて洗礼を受けてキリスト者になるということの大切さというのがあるような気がします。

 W.H.ウィリモン『洗礼 新しいいのちへ』(日本キリスト教団出版局)という本は、洗礼について書いてある本です。ウィリモンは【キリスト者は、洗礼を通して、しかも最終的に、自分が誰であるのかを学ぶのです。洗礼は、アイデンティティを与える式です】と言います。

 イエスさまが洗礼を受けられたとき、天から声が聞こえました。【「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」】。この天からの祝福は、私たちに与えられた祝福でもあるわけです。私たちがりっぱな神の子になったから、私たちは洗礼を受けるわけではありません。私たちが神さまから愛されるのにふさわしい者になったから、私たちは洗礼を受けるのではありません。そうではなく、私たちはただ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの祝福を、洗礼を受けることによって、宣言されるのです。そのことによって、私たちは自分が誰であるのかということを知ることができるのです。

 人はわたしのことをいろいろと言います。「なまけもの!」「臆病者!」「いいかげんな人間だ!」「いばってばかりでいやなやつ!」「弱虫、毛虫!」「役立たず!」。そうしたことは、たしかにそうであるわけです。わたし自身にも「そうかも知れない」と思い当たることがあります。しかし、しかし違うのです。そうではないのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これがわたしなのです。洗礼とはこのことを受け入れるということです。

 世の中の困難な世相や、また自分自身のだらしなさや弱さのゆえに、なんとなく希望がないように思える時もあります。しかし大切なことは、神さまが私たちのことを愛してくださり、私たちを救ってくださったということなのです。神さまが「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と祝福してくださっているということなのです。

 新しい年も神さまの愛する子として、胸を張って歩んでいきましょう。


2023年1月6日金曜日

2023年1月1日

 2023年1月1日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

 「新しい年。神の恵みに包まれて」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:21ー40節

 クリスマスに救い主イエス・キリストをお迎えし、そして2022年を終え、2023年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 童謡の「クラリネットをこわしちゃった」は、もともとフランスの童謡で、「オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」というのは、フランス語です。『オ・パッキャマラード』は、「行進せよ、同志!」(Au pas camarade )。「一歩、一歩だよ。友よ」というような感じの意味になります。

 「クラリネットをこわしちゃった」の子どものように、なにかうまくいかないと、あわてふためいて、「こわしちゃった。どうしよう。どうしよう」と不安になることが、私たちにもあります。神さまからおこられる。イエスさまから怒られると慌てふためくことがあります。イエスさまは私たちを「オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」と励ましておられると思います。新しい一年も、一歩一歩、イエスさまと一緒に歩んでいきたいと思います。

 シメオンはイエスさまを腕に抱いて、神さまを讃えました。ついに自分は救い主・メシアに会うことができたと確信したのでした。いままでずっと待ち望んでいたけれども、ついに救い主に会うことができた。その喜びにあふれて、シメオンは神さまをほめたえたのでした。アンナもまたシメオンと同じように、マリアさん、ヨセフさん、イエスさまに出会い、神さまを讃美しました。そして救い主がこの世に来られたことを人々に伝えました。

 1月1日は、イエスさまが初めて、エルサレムの神殿に連れてこられた日です。そしてずっと救い主を待ち望んでいたシメオンとアンナが、イエスさまに会うことのできた日です。年をとった二人にとっては、とても幸せな日でした。聖書は、神さまを信じて生きる人たちに、大きな希望が与えられることを、私たちに語っています。

 新しい一年も、神さまにお委ねして、一歩一歩、歩んでいきたいと思います。神さまは若い人にも、年を重ねた人にも、豊かな祝福を備えてくださいます。どんなすてきなことを神さまが用意してくださっているのかを楽しみにしながら、神さまをほめたたえつつ歩んでいきましょう。