2016年12月20日火曜日

2016年12月4日

2016年12月4日アドベント第2主日礼拝説教要旨
  「不安の中での安らぎ」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書2章1〜7節)

 クリスマスを待つ時間の中を歩んでいます。平和を心から祈りつつも平和な世界にならず心を痛め続ける日々の中に立っています。世界は混乱や紛争が繰り返され、国内でも深刻な問題続発し、不幸な事故や凶悪な事件が起きています。また超高齢化社会、格差社会となり、年金や介護や貧困の問題など、ますます難しい状況になり、孤独や不安が広がっています。また、愛する者の死や病気や災難など、悲しみや苦しみで満ちているのです。
 今年も全国のあちこちで地震災害が頻繁に起こりました。しかし、暗い現実の中だからこそ、平和の主イエスがお生まれになられます。「マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とあります。ベツレヘムの馬小屋で名もない大工の家に子どもが生まれるというニュースは人々の注目を引くような大きい事件では決してありませんでした。確かに羊飼いの他にはベツレヘムの村人さえ知らなかったのですが、それが世界の歴史の中心点となるような事件となったのです。世界の片隅でひっそりとした静から出来事が、実は世界に大きな喜びの歌声を響かせていく事件となっていくのです。
 クリスマスの讃美歌は沢山あり歌われますが、その中でも有名な「きよしこの夜」(264)があります。大塚野百合さんの「讃美歌と大作曲家たち」によれば、「まぶねの中に」と訳されたことは意味深く、十字架に至るキリストの姿を象徴していると云われています。何も問題がないから静かで安らかであるというのではなく、苦難と不安(激動)の象徴である「まぶね」の中で安らかであるというのです。まさに264番の讃美歌に響いているのは、この世にはないような不思議な天国の静けさ、安らぎなのです。
 私たちもアドベントのこの期間、安らかに静かに思いを馳せ、イエス・キリストを想いつつ一日一日を大切に歩みたいものです。


2016年12月12日月曜日

2016年11月27日

2016年11月27日教区交換講壇礼拝説教要旨
  「水を飲ませてください」徳舛和祐牧師
  (ヨハネによる福音書4章1〜22節)

  人間イエスだって、喉が渇けば水が欲しくなるのは当たり前です。「神の力」を持ってすれば、何事でも出来る筈です。手を伸ばし、掬い取れば渇きは失せたはずです。でもそうしなかった。この世の掟にしなかったのでした。
 水がすぐ手に入らぬのが、乾燥地帯なのです。道端の井戸であっても所有権があり、勝手に釣瓶を下ろすのは死を意味するのでした。イエスが寄り掛かった井戸は、ユダヤ人の軽蔑するサマリア人の持ち物でした。
 そこの女に、薄汚れた何処とも知れぬ旅人の姿で請うたのです。ここに差別する哀れな者にも膝つきよっていく姿があります。「どうしてサナリアの女の私に、」と、土埃まみれの、ユダヤ人の頼みは女性に取っては、疲れていようが、女性には、渇いていようが知ったことではなかったのです。打っちゃっておいてもよかったのです。ここに、場面を転換するものがあったのです。それは、語り掛けてくるイエスの声ではなかったでしょうか?差別の中で、孤独に生きる者にその壁を取っ払う、今まで聞いたことのない声でした。聞こえていても聞こえないのではなく、「羊は私の声を聴き分ける」(ヨハネ10:16)。
 神との出会いは、この女性への語り掛けの様に、1対1の中で、方向を失ったものへの働きかけなのです。呼びかけなのです。一人の戸惑う者へ、神の方へ向かわせる、体を震わせる何か得体のしれない、つき動かす「言葉」が、この時の彼女をすくったのです。キリストは、生きて行く上での渇きを知っておられたのです。それは「生きた水」に対する渇きです。
 今、私達が生活を送るうえで受ける、あえぐ様々な渇きです。それを主イエスは知っていて居られるのです。サマリアの女は、今、目の前にいるユダヤ人が何者であるか、考える事となります。私達も、今、語り掛けてくる聖書の言葉が、誰の言葉かを真剣に考えなければならないと(11-12)で呼びかけておられます。今日から始まるアドベントは、イエス降誕の前にこの1年の自分をさらけ出して、神に倣うものであったかを、問うていただきたい。
                              アーメン

2016年12月5日月曜日

2016年11月20日


2016年11月20日 収穫感謝 子どもの教会合同礼拝説教要旨
  「地は主の慈しみに満ちている」宇野稔牧師
  (詩篇33篇1〜7節)


 日本でも世界でも沢山悲しいことがあります。世界は悲しいことに溢れているようです。しかし今日は収穫感謝の日です。沢山の実りがあることを神さまに感謝する日で、神から恵みを頂いていることを再確認するという意味があります。

 詩篇の作者は「この地は神さまの慈しみに満ちている」と云っています。でもこの人も沢山の哀しいことを観ていたに違いありません。悲しくて泣きたくなったこと、辛いことも沢山あるけれども、それでもこの世界には神さまの恵みが沢山あるんだということを謳っています。

 「少女パレアナ」という本を知っていますか。色々悲しいことや辛いことがある中で、彼女はそれにめげないで生きていきます。その力は、お父さんが彼女にゲームを教えてくれた「喜びを見つけるゲーム」です。「どんな時にも神の恵みがあることを忘れないで」という教えでした。

 彼女のそんな生き方が、周囲の人たちを感化して喜びを広めて行くという物語なのです。お父さんは、「いつも喜びは見つけるもので、中々見つけにくいかもしれないけれど、聖書の中にも沢山の言葉がある」、と言います。「主にありて喜べ」とか「大いに喜べ」とか「喜び歌え」などあるように、神様の恵みはこの地に満ちているのだ、お父さんも喜びを探し、見つけて感謝しているのだ」と。

 またもう一つ大事な事は、神様からの恵みを見つけて獲得したからといって、それを一人占めにするのではなく、皆で恵みを分かち合うことによってお互いを支えることが出来たら、その時悲しみや辛さも分かち合うことが出来るのです。

 そして悲しいことがあるこの世界の中でもあなたが希望をもって生きることが出来るのだと確信がもてるのです。

 神様は、喜びも悲しみも分かち合うようにとお望みです。そして、この収穫感謝礼拝もそのことを皆で確かめる時なのです。


2016年11月28日月曜日

2016年11月13日

2016年11月13日 主日礼拝説教要旨
  「キリストに結ばれている」宇野稔牧師
  (フィリピの信徒への手紙1章1〜2節)
  パイオニア・オーシャン・ビュー(POV)教会交流礼拝

 姉妹教会としての歩みを始めるに当たり、5人のメンバーをPOV教会(アメリカ)よりお迎えすることが出来ました。心より歓迎し喜びいっぱいです。そういう意味で何故今朝はこのテキストでしょうか。
 この手紙はパウロの獄中からの喜びの通信と言われています。人間は幸福な時に喜ぶのは普通ですが、喜べない方が返っておかしいのです。しかし、喜ぶ事の出来ない時に喜ぶのは大変難しいのです。パウロは獄中でありしかも殉教を目前にして緊迫した状況にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜び」という字が多くあります。
 ここで教えられるのは、喜びの根拠をどこに置いているのかということです。私たちはキリスト教を信仰しつつもその生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないでしょうか。今日の箇所で「キリストの僕」パウロと「キリストに結ばれている」フィリピの教会という両者の関係がその喜びの内容なのです。 
 丁度、平安教会とPOV教会にもそのことが重なるのではないでしょうか。1節の「結ばれている」というのは「エン・クリスト」、即ち「キリストにある」であり、「キリストに出会う」と訳すと伝わりやすいのです。
 私たちはキリストに出会っているから「聖」なるものとされており、キリストによらなければ「聖」ではありません。この意味は立派というものではなく、「神のもの」なのです。私たちは能力や資格で結ばれているのではありません。私たちはキリストに結ばれて、教会に連なりそして、仲間となり友人となっているのです。人間的には弱く歪んだものです。しかしそういう私たちであるにもかかわらず、キリスト・イエスの十字架と復活に結ばれることによって「神のもの」とされたのです。これが原点です。苦しいときは励まし合い、感謝し、喜びあえるのはお互いがその原点をもっているからです。
 キリストに結ばれたものとして、広い大きな視野に立ち、共に歩き始めたのです。

2016年11月21日月曜日

2016年11月6日

2016年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝説教要旨
  「生涯の日を数える」宇野稔牧師
  (詩篇90篇3〜12節)

 お名前が記されている669名の方を覚えての礼拝です。死は自然のことでありますが、12節には生涯の日を正しく数えるように教えて下さいとあります。しかし数えるとはどういう意味でしょうか。数えるとは必ず死があるということです。限界のある生涯を送るのは、どのように正しく数えていくのか、即ち、神の前にどのように生きて行くべきかなのです。故に、その知恵ある心を得させて下さいと要求されていると思うのです。
 しかしながら、人間の知恵とは賢くはありません。例えば、愛する人々の死を前にして、何故何故と問い続けてしまいます。こんなにも早くなら間違いではないですか、と。死と向き合う時、神の御業を現すべく生涯の日を数えて行かなくてはならないのに、主の御旨を正しく知るということは、中々わからないものです。しかし、一人の人生はその長短ではありません。この世に生きている、この世にいなくなっても生きている間に神の前にどう生きたかがものを云うのです。まさに、キリストに結ばれた者は、命なくとももの種であるということを教えられます。
 人は死んでも今なお語るということは本当です。私たちの生涯は罪と死の恐怖から救い出されました。このイエス・キリストの死が何のためだったのか、このことを正しく考える時に、その事自体が知恵ある心となるのです。十字架の死がこの罪と死の力を打ち破って私たちを救い上げて下さったのです。ですから、このことを信じ受け入れることが知恵ある心であり、<主を畏れる>ことは知恵の始めであるとあるように、主を畏れ主のなされる御業を受容することです。
 私たちは恵みにより救いにあずかっています。恵みにより生きているものは、命なくてももの種なのです。従って生きるにも死ぬるにも、この身に公然とキリストの御業が現れることを願うのが、おのが日を数えて生きる者の姿ではないかと思うのです。
 先に召された669名の兄弟姉妹の上に、主の豊かなお慰めをお祈りします。

2016年11月15日火曜日

2016年10月30日

2016年10月30日 主日礼拝説教要旨
  「神を愛し、人を愛しなさい」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書12章28〜34節)

 このテーマは教会の使命であります。平安教会ではバザーの週であり、使命を果たすために皆が祈りと共に励むのです。
 一人の律法学者が「最も大切な教えは何か」と尋ねた時、イエスは「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答え、そして、「隣人を自分のように愛しなさい」と語られたのです。それに対して律法学者は「先生、おっしゃる通りです」と同意し、「あなたは神の国から遠くない」という言葉をもらっています。
 ここで考えさせられるのが、有限な存在である人間が永遠の存在である神を愛することが可能かどうかという点です。それは我々が「神を愛す」瞬間を生きる時があります。それを永遠の生命と呼ぶのだと思うのです。つまり、限りある人間が神との協働の中で神の永遠の生命の一部となるのです。その最も象徴的な行為が礼拝です。ロマ書12章1節でパウロが語っています。私たちのために生命をささげて下さったイエス・キリストのために私たちが自分をささげること、それが礼拝です。平安教会は140年の歴史を与えられています。これまで以上に自覚的に確実に「希望」をもって使命に生きるのです。
 さらにイエスの言葉は、「教会は礼拝さえ守ればよい」のではありません。神を愛すると同時に人を愛する事を求めておられます。これを解説したのがサマリア人の喩えです。そして最後に「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。答えはサマリア人です。
 隣人を愛することの根源は、相手の痛みに共感することです。同じように痛むことです。これこそ今日の教会の使命であると同寺に宣教の使命です。即ち、使命はどちらかだけになってしまっては教会の本質的な生命を失ってしまうのです。34節に「あなたは神の国から遠くなり」と律法学者に云われた意味は、知識として納得するのと神の国にはいるということは関係がないと示されたのです。神の国は知識の問題でなく、そこに入らなければならない。イエスが一つの決断を促された言葉です。

2016年11月8日火曜日

2016年10月23日

2016年10月23日 主日礼拝説教要旨
  「神のものは神に」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書12章12〜17節)

 この所は最後の論争物語です。ここからは力の戦いが始まります。その主題になったのが納税問題でした。ファリサイ派とヘロデ党は納税について考えを異にしていました。ファリサイ派は民族主義の強い人間でしたから、ローマに税金を支払うことを心よしとはしなかったのですが、ヘロデ派は逆にローマに税金を支払うべきだという立場だったのです。それ故にイエスはどちらの側の態度を示すのか、はっきりさせようとしたのです。
 それはイエスを自分たちの味方につけようと考えたのでなく、イエスを陥れるための証人として存在しているのです。イエスが「税金は皇帝に支払うべきだ」と云えば、ファリサイ派はユダヤ民族の裏切り者と呼んで人気を落とそうと考えていたのです。
 一方、「皇帝に払わなくてもよい、神に返すべきだ」と云えば、イエスをローマに対する反逆にを指導したと云うことで逮捕させるのです。どちらにしてもイエスの死につながる言葉尻を捉えようとする罠だったのです。
 絶対絶命のピンチの中でイエスは見事に切り返します。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」でした。イエスの答えに彼らは驚き、それからは論争によって仕掛けることはなくなったのです。つまりイエスは先ほどの言葉によってこれを誰のものと考えているのか、という問い掛けだったのです。
 信仰をもっていると云いながら、世渡りの事のみを考えてお金を頼みとしているのがヘロデ派であり、神のことを語りながら人の事ばかり見ていたのがファリサイ派でした。「本当にこれを神のものと思うなら、どんなに危険でも神に返しなさい」と云われたのです。痛烈な批判であり、問い掛けでした。
 そして、この言葉は私達に向けてもチャレンジです。皇帝のものと考えてしまうのか、それとも皇帝の刻みの中になお神のものであると認めて行くことは、そこにもなお神の支配があり歴史の支配が神であることを信じることなのです。さらに、「あなたはわたしのものだ」と語りかけて下さっている言葉ではないでしょうか。「私は神のものだ」その思いで歩みましょう。