2020年10月14日水曜日

2020年10月11日

 2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

   「勇気を出せ」 村山盛葦牧師

     コリントの信徒への手紙2 5:1-10節

 同胞ユダヤ人との軋轢、国家との軋轢、キリスト教会の問題、様々な困難(難船、飢え渇き、寒さ、盗賊など)を使徒パウロは経験していました。さらに持病を患い健康状態も良くありませんでした。「土の器」の脆さ・弱さ・限界を嫌というほど思い知らされたと思われます。しかしパウロは、四方八方から困難がふりかかってきても、決してへこたれなかった。それは、神が保証として与えてくださった「霊」(プネウマ)が生きて働いていたからです。

 霊(プネウマ)は、大気中や宇宙、そして人間の体内をダイナミックに活動し作用を及ぼす実在物として信じられていました。中国思想や東洋医学に出て来る「気」と似ているかもしれません。気の流れが良いとか、悪いとか言いますが、私たちにも馴染みがあります(「合気道」の「気」、「気合を入れる」の「気」、「元気」の「気」、「病気」の「気」など)。パウロは手紙の中で約120回もプネウマという用語を使い、キリスト信仰と神の働きとの関係を述べています。プネウマは、私たち信仰者の中で働き、共にうめき導いてくれる「神のエネルギー」なんです。ただ、そうは言うものの、私自身を振り返ると、霊的体験やドラマチックな回心体験もありません。むしろ、日常の苦労や辛さ、時には恐怖や怒り、さらには「いずれ人は死ぬ」という現実を見つめると、私の中に神のエネルギーなど、どこにあるのかと思ってしまいます。

 ナウエン神父は、「愛をほとんど経験したことがないとしたら、どうやって愛を選ぶことが出来るでしょうか。機会あるごとに、愛の小さな一歩を踏み出すことで、私たちは愛を選びます。微笑み、握手、励ましの言葉、電話をかける、カードを送る、抱き締める、心のこもった挨拶、助ける仕種、注意を払う一瞬、手助け、贈り物、財政的な援助、訪問、これらのものはみな、愛に向かう小さな一歩です。それぞれの一歩は、夜の闇の中で燃えている一本のろうそくのようなものです。それは闇を取り去ることはありませんが、闇の中を導いてくれます。」(『今日のパン、明日の糧』213頁)と語っています。

 私たちは、滅びゆく「地上の住みか」である幕屋、日々衰えていく「外なる人」、「土の器」に生きていますが、しかしそのただなかに偉大な神の宝・霊が与えられているのです。それは、目の前の闇を完全には取り去ることはできないけれども、闇の中を共に導いてくれる。今日の箇所でパウロは、「わたしたちはいつも心強い」(6節、8節)、と繰り返して述べていますが、「心強い」という単語の、もともとの意味は、「元気である、勇気がある」です。小さな一歩、小さな勇気、灯の霊が、すでに神から与えられている。そこに私たちの存在を賭けて行きたいと思います。主イエスに喜ばれる者でありたいから、それぞれの地上の住みかで小さな一歩・勇気を積み重ねていきたい。それは終末の報いにつながるのですから。


2020年10月8日木曜日

2020年10月4日

 2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

    「良い業を行なう」 小笠原純牧師

      ヨハネによる福音書 10:31ー42節

 『すばらしい新世界』というアンチ・ユートピア小説で有名なオルダス・ハクスリーの名言に、「生涯を通して人間の問題に関心を持ち続け、最後に忠告として言えるのが、『もうすこしだけ親切にしよう』だけでしかないのは、少し恥ずかしくもある」というものがあります。この「少し恥ずかしくもある」というのが良いですね。わたしは「親切にする」ということをもう少し広げて、「小さな良き業に励む」という歩みでありたいと思っています。まあどれだけできているかは別ですけれども。

 イエスさまは自分のことを信じないユダヤ人たち対して、「わたしは神さまの業を行なっている。その業でわたしのことを判断しなさい」と言われました。わたしが行なっていることを見れば、神さまがわたしのうちにおられること、わたしが神さまのうちにいることを知ることができるだろう。そうしたら、わたしのことを信じることができるようになるだろう。

 クリスチャンは昔からずっと、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25章40節)との御言葉を大切にしてきました。

 小さな良き業に励むことは、世の中にとって良いことであるのと同時に、自分自身にとっても良いことです。私たちの心の中には良き思いと、悪い思いがあります。やさしい思いと、いじわるな思いがあります。小さな良き業を行なっていると、自分の中にある良き思い、やさしい思いを養っていくことになります。

 私たちの世の中は、神さまが望んでおられないこと、神さまのみ旨に反するようなことが起こります。腹立たしいことも起こりますし、私たちの意に沿わないようなことも起こります。そうしたなかにあっても、やはり私たちクリスチャンは落ち着いて、神さまが喜ばれる良き業に励みたいと思います。それは小さな、小さな業かも知れません。しかし神さまが喜んでくださる良き業です。人を励まし、人を支え、打ちひしがれた人のこころに愛を届ける歩みでありたいと思います。


2020年10月2日金曜日

2020年9月27日

 2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

   「聞く耳をもって歩む」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 10:22ー30節

 昔、「今日、耳日曜」というギャグがありました。日曜日は休日ですから、耳日曜で耳もお休み、「聞こえない」「聞いてない」という意味です。しかし私たちクリスチャンにとって、「今日、耳日曜」というのは、「聞こえない」「聞いてない」ということではなく、「しっかりと聞いている」ということです。日曜日はしっかりと聞く日です。

 ユダヤ人たちはイエスさまに「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と言います。それに対してイエスさまは、「「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と言われ、「あなたたちはわたしが何を言ったとしても信じないのだから、もういいではないか」と言われます。

 ユダヤ人たちはイエスさまの声に聞き従うことはありませんでした。イエスさまの声に耳を傾けた人々は、この世で重荷をおっている人々でした。病気の人や徴税人であったりしました。彼らはイエスさまの慰めに満ちた言葉に耳を傾けました。またイエスさまの言葉を聞くことによって、自分の罪深さと出会いました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とイエスさまが言われたとおり、彼らはイエスさまの声をしっかりと聞き、従いました。

 キリスト教のメッセージの中には、「そのままでいいんだよ」というメッセージがあります。『アナと雪の女王』の主題歌の「ありのままで」ということです。そしてもう一方、「そのままでいいのかな?」ということです。イエスさまの時代の人々も、救いを求めてイエスさまのところにやってきたのです。私たちはそのままでいいわけないのです。「そのままでいいんだよ」というメッセージは「そのままでいいのかな?」というメッセージも含んでいるのです。キリスト教はこのことを、「人は罪人である」という言葉で表わしてきました。神さまに救いを求める罪人である私たちは、聞く耳をもってみ言葉を聞かなければなりません。

 イエスさまは言われました。【わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない】。私たちはイエスさまの羊として大いなる祝福をいただいています。しっかりとイエスさまのみ言葉に耳を傾ける者でありたいと思います。


2020年9月25日金曜日

2020年9月20日

 2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

   「イエスさまの声が聞える」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 10:1ー6節

 中学校の英語の教科書に、ジョン・万次郎の話が出てきます。「Manjiro learned English by ear. He had a very good ear, so he learned English very quickly」。このフレーズを読みたびに、わたしは「あー、万次郎はええなあ。とても良い耳を持っていたから。わたしの耳はあかんなあ。だからいつまでたっても英語ができんなあ」と思えます。

 今日の聖書の箇所も、またわたしにとってはうらやましい話で、羊は良い耳をもっているという話です。ファリサイ派の人々は、イエスさまの批判の声に耳を傾けるということもありませんでした。イエスさまの声が聞えていないのです。しかし羊であるユダヤの民は、羊飼いであるイエスさまの声を聞いていました。イエスさまの声を聞き分け、イエスさまを信じました。

 そしてイエスさまは良き羊飼いとして、羊飼いが羊の名を知っているように、一人一人の民のことを知ってくださり、その喜びを共に祝ってくださいます。また苦しみ、悲しみも共にしてくださり、共に歩んでくださいます。

 「耳なし芳一」などの『怪談』で有名な、明治の小説家・日本研究家である小泉八雲、ラフカディオ・ハーンは、ある少女の「おやすみなさい」という言葉が、生涯、自分のこころの中に残っているというエッセイを書いています。ラフカディオ・ハーンのこの文章を読みながら、わたしはイエスさまの声が私たちの思いを超えて、私たちに突き刺さってくることがあるのだと思いました。

 私たちの耳が良いとか、悪いとか、そうしたことを超えて、絶対的な声として、イエスさまの声は私たちに届くのです。もちろん良い耳をもって、イエスさまの声をいつもしっかりと聞くに越したことはないわけです。ただ私たちは弱いですから、ときにイエスさまの声を聞くことができず、迷子になってしまうこともあると思います。しかし私たちが迷子になって、イエスさまのことを忘れてしまっていても、あるときまたイエスさまの声が私たちのこころに響いてくるのです。

 イエスさまはいつも私たちを招いておられます。私たちがあっちを向いたり、こっちを向いたり、イエスさまと関係のない生き方をしていても、イエスさまは私たちを招いておられます。イエスさまの招きに応えて、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2020年9月13日

2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

   「神に属する者」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 8:37ー47節

 深澤真紀『平成男子図鑑 リスペクト男子としらふ男子』(日経BP社)によると、「平成男子」の世代は、「リスペクト男子」なのだそうです。【リスペクト男子は、自分の地元や友達や家族をけなす人を、けっしてリスペクトしません。彼らときちんと付き合うためには、まず自分たちが他者をきちんとリスペクトすることから始めるべきでしょう】。

 「イエスさまもリスペクトしていました」と言いたいところですが、今日の聖書の箇所を読んで、目が点になりました。イエスさま、けんか腰です。ヨハネによる福音書のイエスさまは、キリスト教がユダヤ教から独立していくという事情が反映されています。他の福音書のイエスさまに比べると、激しくユダヤ人たちやファリサイ派の人々を批判しています。

 ヨハネによる福音書には、「イエスさまに従うのか」「イエスさまに従わないのか」の二つに一つという語りが多く出てきます。「今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている」「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」。真理に従うのか、従わないのか。神さまに従うのか、悪魔に従うのか。

 しかしこの【神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである】という言葉は、「神に属するか」「神に属さないか」という問いかけであるのと同時に、「あなたたちは神に属する者である」という宣言でもあります。イエスさまは私たちに、「あなたたちは神に属するものなのだ」と言っていられます。だから神さまの言葉を聞く幸いに預かっているのだと、イエスさまは言われます。

 私たちは神さまに属する者として、神さまの祝福を受けた者として創られています(創世記1章)。そういう意味では、私たちはひとりひとり「リスペクト」された者として創られているのです。私たちは神さまの「良きものができた」との祝福の中で創造され、そして神さまに似せて創られたのです。

 イエスさまは【神に属する者は神の言葉を聞く】と言われました。私たちは神さまに属する者として、神さまの言葉を聞きつつ歩んでいきましょう。


2020年9月18日金曜日

2020年9月6日

 2020 年 9 月 6 日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

   「命の光を持とう」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 8:12-20 節

 昔、わたしは左のポケットに300円が入っているのに、右のポケットに入っていた30円を取り出して、300円が30円になったと大騒ぎしたことがありました。なんともなさけない体験でしたが、この体験、わたしの神さまに対するあり方と、よく似ていると思いました。わたしは神さまからいろいろな祝福を受けていながら、自分で「ない、ない」と思い込んでしまうのです。いろいろな祝福を受けていながら、それに気づかず、「なんでわしだけがこんな目にあわんといかんのや」と思ったりします。

 ファリサイ派の人々は、イエスさまに「あなたは自分勝手に自分のことを証ししている」と言いました。「あなたは『わたしは世の光だ』なんて格好のいいことをいうけれども、だれもあなたのことを保証してくれる人がいないじゃないか」というわけです。しかしイエスさまは「わたしはどこから来て、どこへ行くかを知っている」と言われ、神さまの御子としてのご自分について証しされました。私たちは神さまから多くの祝福を受けていながら、それに気づかず、「なんでわたしがこんな目にあうのだ」という思いを持って、自分を見失ってしまうこともあります。自分には重すぎる課題を抱え、悩みの中で、「どうして、神さまは・・・」との思いをもつこともあります。

 しかしイエスさまは私たちが命の光を持っていると言われます。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。私たちの救い主であるイエス・キリストは、私たちがどこから来て、どこに行くのかを知っておられる方です。私たち以上に、イエスさまは私たちのことを知っていてくださる方です。私たちの喜びも悲しみも、弱さもつらさも、私たちの生も死も、イエス・キリストは知っていてくださいます。

 イエス・キリストは世の光となって、私たちのすすむべき道を照らしてくださっています。イエスさまに導かれて歩んでいきましょう。

2020年8月30日

 2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

   「言葉以上の沈黙」 桝田翔希牧師

   ヨハネによる福音書 8:3-11節

 平安教会から洛陽教会に転任して、早くも半年が経とうとしています。皆さまはいかがお過ごしでしたでしょうか。この半年を思い返すと、新型コロナウイルスによる生活の変化は大きなものであったと思います。かくなる私も、外出を控え何かにつけて敏感な日々をすごし「ウイルスに怯える人」になっているように思います。外出自粛の中で孤独な時間も増えました。今年の4月に、「B面の岩波新書」というサイトの「パンデミックを生きる指針(藤原辰史)」という記事が話題になりました。ここではウイルスの危機だけではなく、「ウイルスに怯える人」についても言及されていました。ウイルスによる生命の危機を顕著に感じる社会にあって、過剰な言動や差別、分断が起こっています。

 ヨハネによる福音書8章では姦通の現場でとらえられた女性が、イエスを中心に多くの人がいた場所に連れてこられます。当時の考えで姦通は宗教的な罪とされていましたが、この行動はイエスを政治的に貶めるためにとられたものでした。おそらくこの場は騒然となったことでしょう。わかりやすい罪を前に、正義が暴走した風景も想像できますし、イエスを殺そうとする人たちも相当な熱気があったことでしょう。しかしイエスはしゃがみ込み沈黙でありました。そして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とだけ言われ、誰もいなくなりました。この物語でキーパーソンと言える女性は、最後の方でようやく言葉を発しています。このことは、女性が「人格」ではなくイエスを貶め入れる「道具」であり、罪を責めるための「道具」でしかなかったということではないでしょうか。

 日々新型コロナの報道を見ながら、怯える生活の中で私たちは数字の向こうに生きる「人格」にどれだけ想像力を持てているでしょうか。「ウイルスに怯える生活」は私たちから多くのものを奪っています。しばらくはこんな生活が続きそうですが、孤独な時間、沈黙の時ともいえるこの期間が、裁きの時ではなく、他人を受け入れるやさしい時であってほしいと願いたいと思います。