2022年6月18日土曜日

2022年6月12日

 2022 年 6 月 12 日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

 「わたしはだれ。あなたはわたしの愛する子。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:9-11 節

 マリリン・モンロー主演の映画に「お熱いのがお好き」の題名は、イギリス童謡の「マザー・グース」に由来します。「お熱いのが好きな人もいれば 冷たいのが好きな人もいる 中には 9 日前から鍋に残っているのが好きな人もいる」。いろいろな人がいるということが良いことなのだということがあるのでしょう。マリリン・モンローは、「アメリカのセックスシンボル」というように言われ、いまでも

 偶像化されています。しかしマリリン・モンロー自身はいつまでも「アメリカのセックスシンボル」と言われることが嫌だったと言われています。

 私たちはよく人からどのように見られるのかということに、こころを惑わします。そしてできればよく見られたいと思います。自分を押し殺してでも、人からの評価に自分を近づけたいと思ったりします。しかし、あまり人の評価ばかりを気にしていると、いったい自分は何者であるのかということがわからなくなります。自分がどのように生きたいのか、自分は何を大切にしていきていきたいのか。そうした人生における大切な問いを見失ってします。

 「わたしはだれなのか」。人からの評価にさらされ、自分はだめな人間ではないかと沈みがちな、私たちに対して、神さまは言われます。「あなたはわたしの愛す

 る子、わたしの心に適う者」。私たちにとって大切なことは、私たちが神さまから愛されているということです。私たちが何かができることが大切なのではありません。私たちが神さまから愛されているということが大切なのです。私たちが神さまからの愛を受けて生きている、神さまの愛する子であることが大切なのです。

 使徒パウロは、「信仰による義」ということを言い、救いは私たちが何かをすることによって与えられるものではなく、神さまから無償で、神さまの憐れみによって、神さまの愛によって与えられるものだと言いました。使徒パウロは私たちがなにかできることが大切なのではなく、神さまが私たちを愛して下さっているということが大切なのだと言いました。

 「わたしはだれなのか」という問いに対して、私たちは「わたしは神さまの愛する子。神さまの御心に適う者」と答えます。私たちは神さまから愛されている一人一人、かけがえのない神さまの子です。神さまは私たちのことを愛してくださり、「あなたはわたしの愛する子」「あなたはわたしの心に適う者」と、私たちを祝福してくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


2022年6月10日金曜日

2022年6月5日

 2022年6月5日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

 「聖霊に満たされた私たちの歩み」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 3:20-30節

 ペンテコステおめでとうございます。

 一番最初のペンテコステの出来事のときも、聖霊を受けた弟子たちのことをあしざまにいう人たちがいました。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた」と記されています。

 あざけったり、あしざまに言ったりと、私たちはこころないことをしてしまうときがあります。イエスさまは「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない」と言われました。内輪もめをして争っていれば、立ち行かず、滅びてしまう。たしかにそうだと思います。正しいことを言っているつもりであっても、だんだんと周りの人々が離れ去ってしまうというようなことがあります。わたしが絶対に正しいと思っていることも、ほかの人からすればそんなに正しいことではないということもよくあることです。だからなんでも譲歩しなさいということではないのですが、ただあざけったり、あしざまに言ったりするのではなく、やはり愛をもって話し合うということを心がけるべきなのだろうと思います。

 今日はペンテコステです。さきほどお読みいたしました聖書のペンテコステの箇所にはこうあります。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。聖霊に満たされた弟子たちは、自分の国の言葉で話し出したのではなく、ほかの国々の言葉で話し出しました。それは自分の都合ではなく、相手の都合で話すということです。自分勝手に話すということではなく、相手の立場に立って話すということです。

 「あの男は気が変になっている」「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「彼は汚れた霊に取りつかれている」。イエスさまはそのように人々からあしざまに言われました。イエスさまの弟子たちも聖霊を受けたとき、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」と人々からあしざまに言われました。そうしたことは、ままあるわけです。聖霊に満たされた私たちの歩みがあると、聖書は私たちに伝えています。それは人のことをあざけったり、人のことをあしざまに言ったりするのではなく、愛を持って話し合うということです。

 聖霊降臨日、ペンテコステの今日、私たちは聖なる霊を受けたのです。私たちには神さまの霊である聖霊が宿っています。神さまの祝福を受けて、愛をもって健やかに歩んでいきましょう。


2022年6月4日土曜日

2022年5月29日

 2022年5月29日 復活節第7主日礼拝説教要旨

 「栄光を表す時」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 17:1-13節

 人の祈りはうまく聞こえます。みんなの前で祈るのは苦手だと思う方がおられると思います。わたしも苦手です。辞典には「祈祷は賜物として神から与えられ、人は祈り得るものとさせられる」とあります。なぜ人の祈りはうまく聞こえるのかと言いますと、本来祈りというものは、神さまから与えられるものだからです。私たちは祈る時に、格好をつける必要はないのです。

 イエスさまは大祭司として、弟子たちのために神さまに対して執り成しの祈りを献げてくださっています。イエスさまは「彼らは、御言葉を守りました」「彼らはあなたのものだからです」というように、弟子たちが神さまのものであることを、一生懸命に神さまに祈っておられます。

 イエス・キリストの歩みを思い起し、イエス・キリストの大祭司の祈りを思うときに、私たちはとても励まされます。神さまのみ旨にしたがってキリスト者として生きていくとき、たとえ私たちの歩みがみじめな歩みであったとしても、私たちは栄光に包まれています。イエス・キリストもこの世から敗北と見える十字架の道を歩まれました。そしてそのイエス・キリストが、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっているのです。

 格好のいい生き方、ソツのない生き方というものに、私たちはどうしてもあこがれます。わたしもそうです。姿形がかっこよくないのだから、せめて生き方くらいちょっとはかっこよくありたいと思います。「なんで自分はもっとかっこよくふるまうことができないのだろう」。そんな思いがどうしても私たちの心にはわきあがってきます。しかしそれは自分がよく見られたいという自分の栄光のためであって、神さまの栄光とは関係のないことです。

 「もっとかっこよく、もっとそつなく」というような気持ちがすべて悪いということはないと思います。しかし私たちは神さまと向き合うときくらい、そうした思いから解放されて、素直に自分を表わしたのでいいのです。神さまに向き合う祈りのときでさえ、私たちは自分の格好や自分の栄光ということのほうが気になったりします。しかしほんとうに神さまが私たちに求めておられることは、そうした私たち自身の格好の良さではなく、素直な気持ち、素直な祈りなのです。

 イエスさまは神さまの栄光をあらわすために、自分は十字架につかれました。私たちは自分の栄光を求めるのではなく、神さまの栄光があらわれるような生き方へと歩んでいきましょう。


2022年5月26日木曜日

2022年5月22日

 2022年5月22日 復活節第6主日礼拝説教要旨

 「ただ神さまを信じて、願い、祈る。」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 16:12-24節

 ロシアがウクライナに戦争を始めて、世界中の人々がこのことに心を痛めています。ウクライナに平和が来ますようにと、私たちは毎日お祈りをしています。ウクライナだけでなく、世界ではいろいろな迫害や争いがあります。多くの心配事のために、とても不安な気持ちがいたします。

 不安で不安でたまらず、イエスさまにいろいろと聞きたいと思っている弟子たちに対して、イエスさまは「大丈夫だ」と言われます。あなたたちは悲しみを経験するけれども、でもその悲しみは喜びに変わるから大丈夫だ。それは女性の出産のときのように、とても大変なことであるけれども、でも必ず苦しみ、悲しみは喜びに変わる。そしてその喜びを経験したあとは、苦しかったことも思い出すことがない。それくらい大きな喜びがあなたたちには約束されているから安心しなさいと、イエスさまは言われました。

 いまは理解でなくとも、ときが備えられて、理解することができるということがあります。ときが備えられて、良き方向へと導かれるということがあります。

 中国の作家のイーユン・リーの『千年の祈り』(新潮社)を読みました。イーユン・リーは小説を中国語ではなく、英語で書いています。イーユン・リーが育った時代は、中国もいろいろなことがあり、そうした体験と結びつく言語である中国語で表現するということがむつかしく感じるということがあるのでしょうか。しかし書いている内容は中国人の物語です。イーユン・リーはいろいろな経験をして、英語という言葉で、中国人の物語を書くことができたというのは、それはやはりときが備えられたということなのだろうなあと、わたしは思いました。

 イエスさまは「今、あなたがたには理解できない」と言われました。私たちには、いま、理解できないことがあります。しかしイエスさまは「しばらくすると」わかることがあると言われます。神さまの霊である聖霊の導きがある。いろいろな困難やわからないことが、私たちにはあるけれども、しかし私たちを導いてくださる神さまがいてくださり、私たちの悩みや悲しみを、喜びに変えてくださる神さまがおられると、イエスさまは言われました。

 イエスさまは「神さまを信じて、願い、祈りなさい」と言われました。私たちはただ神さまを信じて願い、祈りたいと思います。神さまが私たちに良きものを備えてくださることを信じて祈りたいと思います。


2022年5月19日木曜日

 2022年5月15日 復活節第5主日礼拝説教要旨

 「たゆたえども沈まず」 川江友二牧師

   列王記上 22:1-16節

 子どもも大人も、間違っているかもしれないと感づいていながら、それを止めることもできず、突き進んでしまうことがある。その最たる例が、ウクライナを侵攻するプーチン大統領の姿ではないか。これは良心の問題とも言える。良心は英語で「コンシャンス」。共にという「コン」と科学の「サイエンス」で、「共に知る」との意味がある。プーチン氏の悲劇は、共に知るための、仲間の声、自分自身の奥深くからの問い、そして神からの声を無視している点にある。しかし、そこに私たちに共通する人間の破れ、罪の姿を見る。

 今日の聖書箇所には、そんな人間の弱さをさらけ出したイスラエルの王アハブが登場する。この時、アハブ王と南ユダ王国の王ヨシャファトは領地を取り戻すべく、共同戦線を張ろうと相談していた。2人の王は預言者に神の言葉を求めた。預言者は国王が神の御心に背を向けている時、これを指摘し、正すことが本来の使命である。しかし、国王お抱えの預言者たちは、神の真実の言葉を語ろうとせず、国王が喜びそうなことを選んで語った。その後、預言者ミカヤが登場するのだが、彼が語ったのは、他の預言者たちと同内容だった。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と。これに対するアハブ王の反応が興味深い。アハブ王は「真実を語っていない」と腹を立てたのだ。彼は自分の間違いと日頃のミカヤの正しさをどこかで理解していたのだろう。だから真実でないことを告げられた事が耐えられなかった。だが、真実を告げられることにも、耐えられなかった。そうしてアハブ王は、神の御心や自らの過ちに気づきながら、その声を振り払うように、戦争を始めてしまう。

 このアハブ王のとった姿勢に私たち自身の姿が浮かび上がってくる。そして、神の御心に背を向けてでも自分の思い通りに生きることを求め、亡びに向かって邁進する今の世界の姿を見る思いがする。

 かつて、この人間の弱さ、罪故に、イエスさまは十字架にかかられた。しかし同時に、終わりへと向かう私たちに対して、かつても今もイエスさまは復活し、共にいてくださる。復活とは、ギリシア語で「~に抗い立ち上がる」と言う意味がある。イエスさまは亡びや終わりへと向かわせる力からあなたを復活させる、立ち上がらせると声をかけてくださっているのだ。その罪の自覚と新しい命へと導かれる過程から、本当の意味での「良心」は生まれてくるのだと思う。

 私たちの目に映る現実には、ウクライナでの惨状をはじめ、良心の欠如、亡びや終わりを感じさせるものが多くある。しかし、その現実に抗い、立ち上がり、私たちのもとを何度でも訪ねてくださる方がいる。この神の赦しに支えられ、私たちは共に神の御心に聴き続けたいと思う。そして、目には見えない主に希望を与えられて、「たゆたえども沈まず」、今の現実に抗して主と共に立ち上がり、キリスト者として今できることを良心をもって、誠実になして生きたいと願う。


2022年5月13日金曜日

2022年5月8日

 2022年5月8日 復活節第4主日礼拝説教要旨

 「エビデンスではなく、愛をもって生きる。」 

               小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 13:31-35節

 わたしはどちらかというと合理的な考えが好きなので、ビジネスライクに物事を考えてしまうところがあります。しかしそれで失敗することも多いです。あまり合理的な考え方をしていると、ときに自分の中に愛がないと思うときがあります。エビデンスとは、「証拠」とか「根拠」ということです。しかしやたらと「ファクトは?」とか「エビデンスは?」と言われると、なんかもっと大切なことがあるのではないかというような気がします。

 内村鑑三は不敬事件」のため、天皇を冒涜したとして追求されます。内村鑑三は、国粋主義者からは拝礼しなかったと言って責められ、キリスト教の人たちからは拝礼したと言って責められるのです。そしてそんななか愛する妻の加寿子が病気のために帰天します。そうしたことで、内村鑑三は信仰的にも、ほとほと疲れ切ってしまっていました。

 そんなとき、加寿子の墓で、内村鑑三は、細き声を聞きます。「一日余は彼の墓に至り、塵を払い花を手向け、最高きものに祈らんとするや、細き声ありー天よりの声か彼の声か余は知らずー余に語って曰く」(内村鑑三『基督信徒の慰』)。「路頭に迷っている老婆は私です。その人に尽くしてあげてください。貧しさのために売春宿に身を置いている少女は私です。その人を救ってあげてください。私のように早く両親を失い、頼る人のいない娘は私です。その人を慰めてあげてください。どうぞ愛と善の業を行ってください」(中島健二『出家』)。

 内村鑑三はほとんど死んだような感じになっていたわけですが、この加寿子の墓の前の出来事によって、生き返ります。加寿子の愛によって、内村鑑三は生き返るのです。「わたしがあなたに尽くしたように、あなたも困っている人のために尽くしてください」。わたしがあなたを愛したように、あなたも困っている人々を愛して、愛と善の業を行なってください。愛をもって生きてください。そのような細き声を、内村鑑三は聞き、そして生き返るのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、イエスさまは言われました。私たちはイエスさまの愛の交わりの中に生きています。私たちはときに正義を振りかざし、自分の正しさを証明しようとしたりします。論理的なことや合理的なことは、それはそれでとても大切なことだと思います。しかし同時に、私たちはイエスさまの愛のうちに生きていることを、しっかりと受けとめて歩みたいと思います。


2022年5月5日木曜日

2022年5月1日

 2022 年 5 月 1 日 復活節第3主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは私たちを守ってくださる」 

              小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 10:7-18 節

ウクライナの19世紀の詩人に、タラス・シェフチェンコという人がいます。シェフチェンコは良き社会が来ますようにとの祈りをもち、農奴制に反対をして捕らえられました。シェフチェンコは、新約聖書の福音書を読むのが好きだったと言われています。シェフチェンコは、だれに従って生きていくべきなのかということを知っていました。

ヨハネによる福音書において、イエスさまは「わたしは○○である」ということをよく言われます。ヨハネによる福音書 11 章 25 節では【わたしは復活であり、命である】とあります。またヨハネによる福音書 14 章6節では【わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない】とあります。

イエスさまは「わたしは良き羊飼いである」と言われました。イエスさまは羊飼いであり、そして私たちはイエスさまの羊です。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言うように、イエスさまは私たちのことを知っていてくださり、そして私たちもイエスさまのことを知っています。イエスさまが私たちのために、命を捨ててくださった方であることを、私たちは知っています。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちはイエスさまの十字架の贖いによって、神さまから罪赦されて生かされています。イエスさまが私たちの罪を担ってくださり、イエスさまが私たちの代わりに、十字架についてくださったのです。

イエスさまは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われました。イエスさまは私たちのことを知っていてくださいます。このことが私たちにとってとても大切なことです。私たちにとって大切なことというのは、「私たちが知られている」ということなのです。もちろん私たちがイエスさまのことを、神さまのことを知っているということも大切なことなのです。しかしあえてどちらが大切なのかと言われると、「私たちが知られている」ということが大切なのです。

良き羊飼いがおられます。私たちのことをすべて知っていてくださり、私たちの弱さも、私たちのなさけなさも、私たちのこころの中のとげも、私たちの罪も知っていてくださり、そしてその上でイエスさまは私たちのことを愛してくださっています。良き羊飼いであるイエスさまに導かれて歩みましょう。