2016年7月5日火曜日

2016年6月19日

2016年6月19日 主日礼拝説教要旨
  「一番になって何をする」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章32〜45節)

 今朝の聖書に出てくるイエスは実に厳しい顔をしています。弟子たちは「驚き、従う者たちは恐れた」と記されています。イエスはここで3度目の「十字架の予告」をします。十字架への苦難の道が極めて具体的に迫っているということです。イエスの決意は受難の道であり辛い道行です。
 さて、その足下で弟子たちは何を感じていたのでしょうか。ヤコブとヨハネが内緒でイエスのもとに来て「あなたが王座に就かれる時は、左大臣右大臣にしてください」と頼んだというのです。師であるイエスが十字架に向かうために決死の歩みをしている足下で、弟子たち皆んが「誰が偉いのか」といい争いをしているのです。
 この弟子たちの姿をどう見、どう考えるでしょうか。イエスの荘厳な決意を前にして弟子たちはなんという愚かで、滑稽なことかと考えます。しかし、よく考えると私たちはこの弟子たちの姿を笑うことは出来ません。なぜなら、弟子たちは私たちの日常の生き様そのものだからです。イエスと一緒に生活しながら、イエスのことを全く理解出来ず、自分の事だけしか考えていないのです。
 そのような私たちに向かって「偉くなりたいなら、仕える人になりなさい」と言われるのです。同じ話が9章33節でも語られております。この繰り返しの中で、愚かで滑稽な弟子たちに対するイエスの愛を見るのです。このような弟子たちを最後の最後まで見捨てず、諦めず、希望を持ち続けるイエスの深い愛を覚えます。
 これがイエスの闘いです。愛を行う闘いです。目的は勝利ではなく、神の御心が行われているかどうかです。愛の目的は相手を立てること、「仕える」ことです。十字架の道は生命を失うという完全な敗北ですが、イエスはこの道を歩んでいます。この世的に考えて勝利かどうかではなく、神の御心が行われてるかどうかなのです。
 その歩みこそが本当の勝利だったのです。

2016年6月27日月曜日

2016年6月12日

2016年6月12日 子どもの日合同礼拝 説教要旨
  「神さまは愛」宇野稔牧師
  (Ⅰヨハネの手紙4章16〜21節)

 16節に「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です」という言葉があります。これこそキリスト者の証しです。私たちは、神に守られていることを当たり前のことのように思ってしまっていないでしょうか。神の愛を心に留めて生きているでしょうか。どんな時にも自分は神に愛されていると信じることが出来ていますか。
  現実の私たちは、うまく行かなくなると不安になり、人生思い通りでないことに激しく動揺してしまいます。そして自分の無力を嘆いたり、他人の冷たさを恨んだり、社会の矛盾を数えて悲嘆にくれたりしてしまうのです。
 その時、聖書は段落を変えて宣言します。「神は愛です」。私たちが生きて行くに当って、拠って立つべき事実がここにあるのです。時代や自分を巡る環境がどのようなものであれ、「神は愛です」という事柄は揺るがない事実だという宣言なのです。様々な状況に心折れることなく「神に愛されているという確信にとどまる」ことが奨められているのです。
  18節で「愛には恐れがない」と語られています。私たちが神の愛を生きるならば、この世界のいかなるもの、いかなる人も恐れることはないというのです。その愛は神によって19節に示されている通りなのです。神の愛を生きる者は、イエスがモデルです。「他者を愛そう」とするのです。私たちは「神を愛している」とは云うけれど、兄弟が困っていても手も出さない人がいたとしたら、その人は本当の神の愛と出会っていないのです。愛される体験のない者が愛することが出来るはずはありません。さらに、目に見える兄弟を愛さない人が、目に見えない神を愛することな出来ません。
  互いに愛し合うこと、それが神が旧約の初めから語って来られたことであり、イエス・キリストが生命を縣けて残された新しい掟なのです。  小さな子どもたちが成長して行くのも神の愛のしるしです。私たちはその神の愛の中に置かれています。子どもと共に神の愛に感謝し、その愛の中を生きる者として、互いに愛をもって歩みましょう。

2016年6月21日火曜日

2016年6月5日

2016年6月5日 主日礼拝 説教要旨
  「一つ足りないものがある」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章17〜22節)

 富める青年に向かってイエスが「一つ欠けている」と云われたことを考えましょう。単純に考えれば「イエスに従うこと」でしょう。しかし、イエスは従うことや、全財産を貧しい人に施すということではないと考えておられます。イエスが求めておられる一つのものとは、この人がもったら永遠の生命に至り、神の国へと至るその根源が「一つ足りない」ものです。それを解く鍵が21節にあります。
 イエスはこの人に目を留め、慈しまれたとあります。この言葉は「アガパオー」ですが、これはアガペーの動詞です。イエスはこの人を見て深い愛を覚えられたのです。愛のまなざしの中で語られたのです。ですから、この言葉は相手に不足を見出すための言葉でありません。むしろ、イエスが人を見つめ「私に従って来なさい」という時には、その人を招いておられるのです。「あなたに足りないものは一つだけだ」。イエスはこう語りながら、この人を招いておられるのです。
 考えてみたら、この人も欠けの多い人間だったのです。足りない面を多く持っていたでしょう。しかし、彼は一生懸命に歩んできたのです。イエスはそのような人間を愛されたのです。足りないことが多くても、貧しい器であっても必死になって神の業を行おうとする人間を神は愛するのです。そのような人間を救いへと招かれるのです。
 実に彼に欠けている「一つのもの」、それは神への信頼です。人間の破れを社会の破れを自ら貧しくなって十字架についてまで懸命に支えようとしている神への信頼です。彼の今日までの歩みの中に、そのような神の愛があったという信仰が彼に欠けていた一つではないでしょうか。逆に云えば、私たちに求められているものは、才覚や能力や資質ではなくこの一つの信仰だけだということではないでしょうか。

 今年の平安教会では、宣教方針(総会にて承認された事項)の③で「地域に、家庭(家族)に伝道する教会」を掲げ、私たちの足りない点を補うことに集中するよう実際に伝道文書をもって励むのです。

2016年6月15日水曜日

2016年5月29日

2016年5月29日 主日礼拝 説教要旨
  「神の国を受け入れる信仰」宇野稔牧師
  マルコによる福音書10章13〜16節)

 イエスのもとに子どもを連れた母親がやって来ます。イエスの弟子たちはその親子を見て追い返そうとします。イエスが休むことの妨害になると思ったのです。それも子どもでなく母親を叱っています。子どものことで叱られることは親にとっては辛いことでした。
 ところがその様子を見ていたイエスは、その弟子を叱ったのです。しかも憤ったとかかれていますから激しい感情を表したのです。つまり、他では見たことがないくらい激しく弟子たちを叱りつけたのです。子どもがイエスのところに来る、そしてイエスの祝福を受ける。それは決して妨げてはならない行為なのです。
 イエスは「神の国はこのような者たちのものである。はっきり云っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない」。そして子どもたちを抱き上げて祝福されたのです。イエスは子どもの何をそんなに評価されたのでしょうか。それは「神の国を受け入れる」と云う言葉です。神の国とは神の支配と言い換えることができます。子どものように神の支配を信じる者こそ、神の国にふさわしい者たど言われるのです。
 子どもは素晴らしい能力の持ち主です。例えば「仲直り」です。本気で大げんかしてもその直後に仲直りして、すぐに一緒に遊ぶという能力です。根底にあるものは他者に対する信頼です。子どもは言葉でうまく表現出来なくても、神が自分たちを愛しているという事を感じていますし、信じているのです。
 信仰の先達は、私たちに神の国を受け入れることの大切なことを告げています。それは自分を委ねて行くことです。無力なるが故に、出来ることがあるのです。そして無力な私が神と出会うのです。神の国を受け入れていく信仰、それを継承していきたいと願うのです。ここでイエスが特に強調されておられる点は、幼子のように素直になれということよりも、乳飲み子という言葉からも飲み込む、受け入れるという特色があると云われ、その点をイエスがここで引き合いに出された意味なのです。

2016年6月7日火曜日

2016年5月22日

2016年5月22日 聖霊降臨日礼拝 説教要旨
  「やめさせてはならない」宇野稔牧師
  マルコによる福音書9章38〜41節)

 弟子たちは自分たちの知らない人が、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを見て「私たちの仲間でないのだからやめろ」と云いますが、失敗したのでイエスに訴えるのです。ところがイエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方である」と云います。これを単純に考えると心の狭い弟子に対して、イエスは心の広い方なのだという物語のように読めます。
 ところがマタイ福音書12章30節には「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し...散らしている」。マタイでは味方以外は敵だと云っているのです。マタイの成立の成立的背景にユダヤ教からの迫害という現実があって、12章のところもファリサイ派との論争の中でイエスが云った言葉なのです。そこで問われているのは、イエスと共に歩むかファリサイ派に従うかという決断があり、迫害の中でもイエスと共に歩みなさいとの決断を促す言葉なのです。
 それに対して今日のマルコの文脈は、イエスに従う決意をした弟子たちに対して語られています。彼らがイエスに従うという決断はすでになされているわけで、その弟子に対して私たちに敵対しないなら味方ではないかと語っているのです。
 だからイエスが私たちという主語を使っていることに注目しましょう。即ち、自分の仲間として表現されています。そしてその行為を「やめさせてはならない」と語られるのです。男がイエスの名を使っているということは、イエスの運動に共感したり共鳴していることの証しでしょう。必ずしも正しい弟子でないかもしれないが、「敵でないなら味方ではないか」です。41節に「はっきり云っておく...水一杯をさし出したこと、その事を忘れない」というのです。イエスは十字架に向かっています。イエスはいのちを捨てる旅をしているにもかかわらず、水一杯を差し出したこと、このことを覚えそのことをもって報いて下さるというのです。
 キリスト者として適格者と云える者ではないにちがいありません。しかし器不足の者が差し出した水一杯をイエスは「忘れない」と語られるのです。

2016年5月31日火曜日

2016年5月15日

2016年5月15日 聖霊降臨日礼拝 説教要旨
  「神の力・霊の力・炎の力」宇野稔牧師
  (使徒言行録2章1〜8節)

 聖霊降臨日です。イエスが弟子たちから離れて天に昇ってから「助け主を送る」との約束を信じて待っていました。五旬祭の日についに「神の定めた時」が満ちて助け主が与えられたのです。その時の様子が具体的に記されているのが2と3節です。ここに記されている超自然現象は、神がそこに現れたということを表現するための古代人ルカの文学表現です。
 聖霊とは、ルーアッハというヘブル語ですが、これには「風」「息」という訳があります。イスラエルでは2種類の風が吹きます。一つは東風。激しい東風は砂漠や荒野から吹きつける風でした。熱風の中に砂を伴い、作物を駄目にし、生活を破壊し、ひどい時には町の機能さえ奪っていく破壊的力をもつ風のことです。「草は枯れ花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ」(イザヤ40:7)。これはまさに東風のことです。
 もう一つは西風です。地中海から吹き込む風です。冬の渇いた地に雨を降らせるのは西風です。夏の西風は灼熱の太陽にさらされている人間に穏やかで涼しい地中海の空気をもたらし、大地と人間を生き返らせる力、それが西風です。風は神の力です。人も国も滅ぼすことの出来る神の力なのです。しかし、その神の力は渇ききった人間の魂を潤し、慰め、生き返らせる力でもあるのです。国を滅ぼすことさえ出来る神の力、それが人を生かすために用いられるというのが「聖霊の働き」なのです。
 私たちの生活で途方にくれたり、不安や絶望したり、劣等感にさいなまれたり、そういう生き様の中で泥だらけになっている時に聖霊は「弱い私たちを助け、聖霊自ら言葉に表せない呻きをもって、私たちのために執りなしてくださるのです」(ロマ8:26)。
 私たちは聖霊を受けています。だからイエスを信じることが出来るのです。この社会の中で神の力、霊の力、炎のような愛によって生きる者となりましょう。

2016年5月24日火曜日

2016年5月8日


2016年5月8日 主日礼拝 説教要旨

「誰が一番偉いのか」宇野稔牧師

(マルコによる福音書9章33〜37節)

 イエスは十字架を思い一歩一歩祈る思いで一心にエルサレムへ向かう時に、弟子たちは「誰が一番偉いか」という話しをし、自分の出世を虎視眈々と考えているのです。弟子たちは何と情けないのでしょうか。その弟子に対してイエスは、どっかりと座わり込んで、弟子たちをそこに呼び寄せたのです。つまり弟子たちも座らせたという事です。

 このスタイルは、弟子たちが寝食を共にしてきたことを思い起こすという効果があったのです。「今あなた方が関心を払うべきことは、誰が偉いかではなく、力を合わせるべき時なのだ」と云いたかったのではないでしょうか。

 そしてイエスは「一番になりたいなら、すべての人に仕えなさい」と語られたのです。さらに「仕える」という意味を知らせるために一つの行動を示されます。イエスは立ち上がり、周りにいた子どもを連れて来て、真ん中に子どもを立たせ、抱き上げられたのです。私たちはこの光景を違和感なく受け止めますが、当時の社会状勢を考えると、非常に珍しかったのです。子どもや女性は当時半人前の人間としてしか扱われていなかったのですから。しかしイエスが表したのは、子どもと女性を一人の人格者として受け入れられた、即ち、この世界の最も小さいもの、弱いものを受け入れられたのです。

 この意味するところは、私たちが生きる姿勢を全く変えること、自分の在り方を変えることを示されているのです。私たちもまた「偉くなりたい」という思いで生きてきていたのでしょうが、その時私たちは大切なもの、見失ってはならない大事なものを失くしてしまっているのです。私は30年間の幼児教育の現場で、卒園児に送る言葉として「偉い人になるより、賢い人になれ」と云い続けました。

 イエスは私たちに「さあ、座りましょう。一緒に座ってもう一度、中心にイエスがいて下さるということに心を留め、私たちの生き方を変えよ」と呼びかけておられるのです。耳を澄まして聴きましょう。