2020年2月17日月曜日

2020年2月9日

2020年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
  「汚れつちまつた悲しみに」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 8:21~36節
 中原中也は洗礼を受けたクリスチャンではありませんが、「近代詩人中まれにみる宗教詩人である」(河上徹太郎『わが中原中也』)と言われています。中原中也は、「罪」「悲しみ」「後悔」「孤独」というような、人間の魂の出来事を掘り下げ、素直に詩で表現しました。「汚れつちまつた悲しみに」という言葉など、ちょっと歌謡曲のような感じで、なかなかいいなあと思います。
 殺伐とした世の中になり、「汚れてもいいじゃないか」と開き直るような世情のなかにあって、やっぱり「汚れつちまつた悲しみに」というような思いは大切なことだと思います。自分が抱える罪に気づくのは、たましいの気高さというものがあるからでしょう。自分の歩みを振り返って、「汚れつちまつた悲しみに」と、ため息をつく。そして自分の心の中をしっかりと見つめるときに、私たちは自分の罪に出会います。
 ユダヤ人たちは、自分たちは律法を守って、天に召されると神の国にいくことができると思っていました。「だって、私たちは律法を守っているんだから」。ユダヤ人たちは、律法を守って正しい生活をしている私たちが、神の国に行けないはずはないと思っていたのです。
 イエスさまを信じないユダヤ人と、イエスさまを信じたユダヤ人の違いは、自分の罪に出会うかどうかということでした。「私たちはアブラハムの子孫であり、ユダヤ人は選ばれた民である」と思っている間は、イエスさまに出会うことはありませんでした。「汚れつちまった悲しみ」がないわけです。汚れているのに、汚れていることに気がつかず、自分はきれいだと思っている。自分はアブラハムの子孫だ。神さまにつながる者だと思っている。
 自分が罪人であるということに気がついたときに、はじめて本当の意味での神さまとの出会いがあるのです。自分の罪の大きさに気づいたとき、その罪をあがなってくださったイエスさまの十字架の愛の広さに驚き、私たちはただ神さまに頭を垂れる者へと導かれていきます。「人みなを殺してみたき我が心その心我に神を示せり」という中原中也の句の通りであるわけです。赦されない罪が赦され、裁かれなければならない者が救われる。イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださり、私たちは自由な者とされたのです。
 私たちは自由にしてくださったイエスさまに感謝しつつ、悔い改めの気持ちをしっかりとこころにとめて、歩んでいきたいと思います。私たちの罪を贖ってくださったイエスさまと共に希望をもって歩んでいきましょう。

2020年2月9日日曜日

2020年2月2日

2020年2月2日 降誕節第6主日礼拝説教要旨
  「とけていく社会に抗して」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 2:13~25節
 二人の娘たちが小さいころ、一緒に積み木で遊ぶということをしていました。積み上げていくということは、希望のわく作業です。私たちの社会のイメージというのも、いろいろな良くないことを良いものに変えて、そして良き社会を作り上げていくという、ある意味、積み木に似たような感じがあるような気がします。
 わたしはここ十数年で、日本の社会は大きく変わったような気がしています。わたしの感覚では、悪くなった気がします。以前は個別の政治家の資質の問題であるのではないかと思ったりしていたのですが、社会全体がもうすでに大きく変わってしまい、倫理的な基盤そのものが、失われてしまっているような気がしています。政治家の心ない悲しい振る舞いをみるときに、わたしは「私たちの社会がとけていく」というふうに思います。私たちの社会はとけていっているのです。壊れていくのではなく、とけていくのです。
 この神殿で商売をしている人々を神殿から追い出されたという出来事は、とても象徴的な出来事です。神さまに献げ物をする、そうした場所さえも、この世的な価値観に支配されてしまっているということを表している出来事が、神殿での商売ということでありました。
 イエスさまは羊や牛を神殿の境内から追い出しなら、私たちの問うておられます。「あなたたちは本当に、神さまのみこころに反した社会で良いのか」。イエスさまは両替人の机をひっくり返しながら、私たちに問うておられます。「あなたたちは、あなたたちの社会が、このままどんどんととけてしまってよいのか」。
 私たちはこころの弱い者ですけれども、とけていく社会に抗して生きていきたいと思います。私たち自身が良き歩みを求めて生きたいと思います。とけていく社会を変えていく唯一の方法は、私たちがまっとうに生きていくということです。うそに満ちている社会においてどのように生きるのか。人をさげすむようなことが広がっている社会でどのように生きるのか。人にいじわるをしておもしろがる社会でどのように生きるのか。
 それは、うそはつかない。人をさげすむようなことはしない。人にいじわるをしない。私たちクリスチャンは、そうした当たり前の倫理的な歩みを大切にしたいと思います。イエスさまが歩まれたように、愛に満ちた、やさしさに満ちた歩みを求めて歩んでいきましょう。

2020年2月3日月曜日

2020年1月26日

2020年1月26日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「祝福された時を共にする」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 2:1~11節
 歴史学者の小島道裕さん(国立歴史民俗博物館)によりますと、一揆とは「同じ目的で意思を統一した人々が集団を結ぶことを意味してい」るのだそうです。一揆ということで大切なのは、志が同じであるということです。身分が高いとか低いとか、が大切なわけではありません。そうしたことを形に表すために、作り出された書式形式が円卓会議方式だと言われています。真ん中に、「まる」を書いて、そのまるに沿って、名前を書いていく方式です。
 一揆というのは、私たちの教会のあり方とよく似たものだと思いました。私たちはイエス・キリストの恵みを大切にするという目的で集まり、そして集まった私たちの中では、だれがえらいとかそういうこととではなく、みんな神さまに等しく恵みを受けた人として集っています。そして私たちは、イエスさまが言われたことを行なうということを大切にして、自分がしたことで、周りの人々から「すごいね」と言われることを求めるわけではありません。  
 イエスさまが最初の奇跡を行われたのが、ガリラヤのカナで開かれた婚礼であったと、ヨハネによる福音書は記しています。それは、幸いはイエスさまからやってくるということです。婚礼というとても幸いなときに、イエスさまが最初の奇跡を行われるのです。
 そして、私たちはイエスさまによって祝福された時を共にするという恵みに招かれているということです。【このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった】。召し使いたちはイエスさまから言われて、水を大きな水がめに入れて、それを世話役のところに運んで行ったので、それがぶどう酒になったことを知っていました。召し使いたちは周りの人々から誉められるということはないのですが、しかし召し使いたちは、イエスさまによって祝福された時を共にしているのです。
 カナの婚礼の召し使いたちがそうであったように、私たちもまた、イエスさまによって祝福された時を共にしているのです。私たちはイエス・キリストこそ、私たちの救い主であり、私たちの希望であることを知っています。イエスさまが教えてくださったので、私たちは私たちが神さまの民としての大きな祝福を受けていることを知っています。イエスさまによって祝福された時を共にして、イエスさまに従って歩んでいきましょう。

2020年1月27日月曜日

2020年1月19日

2020年1月19日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
   「共に歩み出す」 桝田翔希伝道師
     ヨハネによる福音書 1:35~51節
 洗礼者ヨハネの導きによりイエスの後をついてきた二人は、「どこに泊まっておられるのですか」と問いかけます。「泊まる」という言葉はヨハネによる福音書の中でよく用いられると同時に、ふたつの意味が込められることがある言葉です。この言葉は、15章の「イエスはまことのぶどうの木」とタイトルの付いた箇所でも印象的に用いられています。「わたしにつながっていなさい(4節)」、「私の愛にとどまりなさい(9節)」イエスの活動は神の愛の内に留まるものでありましたし、イエスの言葉は次第に弟子たちの内に留まるようになりました。そのようなイエスの生き方を想起させる問いかけを、弟子たちはここでしているのです。
 そして、イエスは一見すると「頼りない人」や「この世的な価値観に生きている人」を弟子へと招きます。この出会いの場面には、イエスがどのような出会いを大切にしていたのか見ることができます。シモンは洗礼者ヨハネの下で生活していた兄弟とは違い、この世的な生活を送っていました。しかしイエスは岩という意味の「ケファ」という名前を授けます。ナタエルはイエスという人が現れたことを聞いた時、「田舎からそんな人が現れるわけがない」と言います。しかしイエスは、そんな頑なな心の持ち主にも否定することなく出会い、その心を解きほぐしていきました。ここには、明らかな間違い、欠けのある人間でありながらも、それを否定することなく受け入れ共に歩み出したイエスの生き方が描かれています。
 ネパールで医療活動や生活改善の取り組みをしておられた岩村昇医師は、「Go to the People(人々の中へ)」という詩を大切にしておられたそうです。「人びとの中に行き 人々と共に住み 人々を愛し 人々から学びなさい 人々が知っていることから始め 人々が持っているものの上に築くのだ…」というこの詩は、海外協力の中で自分たちの正しさを押し付けるのではなく、現地の人々に学び共に働くことが示唆されています。
 私たちの生活を振り返ると、考えの違う人や文化の違う人をついつい拒絶してしまうこともあります。自分の考えを押し付けようとしてしまう時もあります。しかしイエスの出会いは、明らかな間違いがあっても否定することなく共に歩まれました。そのような歩みの中で、弟子たちの心の中にもイエスの言葉が留まっていったのです。私たちの中にもイエスの言葉が留まっていることを覚えながら歩んで行きたいと思います。

2020年1月20日月曜日

2020年1月12日

2020年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教要旨
  「世の罪を取り除く神の小羊」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 1:29~34節
 小羊はキリスト教のなかでよく用いられたシンボルです。迫害のなかで十字架の像を広めることのできなかった初期のキリスト者は、その代わりに小羊の像を用いたりしました。イエスさまと初めて出会ったバプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと、ヨハネによる福音書は伝えています。
 イエスさまは十字架によって殺され、天に召されました。しかしそのなきがらは、兵士によってはずかしめられます。なんともむごたらしい話です。もう死んでいるのに、死んでいるのか確かめるために、イエスさまはわき腹を槍で刺されたのです。人間とはなんとも言えず、非人間的になることができます。私たちの世の中は、そういう世の中です。そうした悲惨な世の中で、イエスさまは世の罪を取り除くために、十字架につけられました。
 社会自体も罪の多い社会ですが、私たち自身もまた罪深いものです。「心を合わせて祈ろう」と言っても、いつのまにか心のなかに人間的な思いが出てきます。「あんなやつのために祈れるか」。そんなふうに思ってしまいます。「自分も神さまから赦されている罪人でしかない」。そのように思いつつも、思わず爆発してしまうので、「あの人だけは許せない」。大声で叫びたくなります。「あの人だけは許せない」。
 私たちは私たち自身で、私たちの罪を解決することなどできないのです。きれいになんかなれないのです。しかしだからこそ、イエスさまは世の罪を取り除く神の小羊として、私たちのところにきてくださったのです。だからこそ、わたしは世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストを讃えたいのです。「この方こそ、世の罪を取り除いてくださる方だ。この方こそ、わたしの罪を担ってくださる方だ」。その思いはたしかな思いです。
 私たちの世の罪を取り除く神の小羊が、私たちと共にいてくださる。私たちは自分の罪のゆえに、自分で自分をどのようにすればいいのかわからないけれども、しかし私たちとともに、イエスさまはいてくださるのです。
 神の小羊イエス・キリストがたしかに、この世の罪を取り除いてくださるのです。私たちはこのことを信じて、この方に依り頼んで歩んでいきましょう。世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストをほめ讃えましょう。

2020年1月13日月曜日

2020年1月5日

2020年1月5日 降誕節第2主日礼拝説教要旨
  「満ちあふれる豊かさの中で生きている」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 1:14~18節
 クリスマス、御子イエス・キリストは、何も特別なものをもたない私たちのところに来てくださいました。マリアの賛歌のなかで、イエスさまの母マリアは、そのことを次のように言っています。ルカによる福音書1章47-48節にはこうあります。【わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです】。イエス・キリストは特別でない私たちのところに、神さまの御子であるにも関わらず来てくださいました。私たちは豊かな恵みをいただいて生きています。
 ヨハネによる福音書は、【律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである】と言っています。モーセの時代が終わり、イエス・キリストによって、人は救われるということです。モーセの時代に神さまから与えられた約束は、律法を守ることによって救われるということでした。しかし人は弱さのゆえに、律法に従って生きることはできず、律法は「裁き」を生むことになります。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように、律法を用いて人々を裁く人たちが出てきます。しかしイエスさまは、人はみな神さまの愛のうちに生きている。神さまの憐みのうちに生きていると語り、神さまが私たちを許してくださっていることを語りました。
 私たちはいま、イエス・キリストの恵みと真理のうちに生きています。「これができていない」とか「これではだめではないか」という裁きの世界に生きているのではありません。人を傷つけたり、人をののしったりする裁きの世界に、私たちは生きているわけではありません。私たちはイエス・キリストの恵みと真理のうちに生きています。私たちは裁きではなく、恵みの世界に生きています。神さまの愛、神さまの憐みによって生きている私たちは、思いやりを大切にして、互いに尊敬しあい、互いに助け合って生きていきます。「あなたは大切な人なのだ」「あなたがいてくれて本当によかった」と、互いに感謝しつつ歩みます。
 新しい一年も、神さまに愛され、イエスさまに励まされながら、感謝をもって歩みたいと思います。イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中に歩んでいることに感謝して、神さまの民として胸をはって歩んでいきましょう。

2020年1月7日火曜日

2019年12月29日

2019年12月29日 降誕節第1主日礼拝説教要旨
  「世界中に知らされた」 桝田翔希伝道師
    マタイによる福音書 2:1~12節
 クリスマス礼拝、燭火讃美礼拝を恵みのうちに無事に終えられましたこと、神さまに感謝いたします。2019年最後の礼拝ですが、この一年はどのようなものであったでしょうか。元号が変わり、天皇についての報道が繰り返しなされた年であったように思います。天皇のことは教会から見れば、「外側」のことかもしれませんが、私たちが今一度問われている事ではないでしょうか。
 公現日を控えたこの日にあって、聖書日課では「占星術の学者たちが訪れる」とされる箇所が選ばれていました。ここでイエスを訪ねて礼拝した学者たちというのは、どのような人たちであったのでしょうか。「星」は肉眼で見えるものは8,600個ほどあるのだそうです。現代のような技術もない時代にあって、星を観察して記録するというのは膨大な知識を伴うことであったでしょう。当時にあって学者たちはエリートとされる存在でした。一方でエルサレムにいた学者やヘロデも、聖書の知識は十分持ち合わせた人たちでした。エルサレムの人たちも救い主の誕生を知識として知っていましたが、学者たちのように礼拝しようとはしませんでした。ここに、「知識」と「生活(信仰)」が必ずしも結びつかない姿が描かれています。さらに知識的なエリートであった学者たちでしたが、その道のりは知識のみではなく、星(神)による不思議な導きによるものでした。
 救い主が生まれたことは、外国の学者たちによってエルサレム中に知れ渡ったようです。しかし、ヘロデはその救い主が礼拝すべき存在であると知りながら、保身のために殺すことを考えました。救い主の誕生は世界中に知らされたものでありましたが、それと同時にエルサレムにあったそれまでの生活(信仰)が外国から問われた瞬間でもありました。同じように、日本の教会の歴史を振り返っても、外部から問われるということが何度もあったように思います。戦時中には、国家という教会の外部の言いなりになり、戦争に加担していきました。「外側」からの問いかけに、私たちはどれほど心を開けることができるでしょうか。また、イエスが活動された場所の多くは、都のような中心・内側ではなく、辺境であったり疎外された場所であったことを聖書は記録しています。
 知識を越え、星に導かれた学者たちは、イエスという「生きた希望の生命」に出会いました。降誕節にあって、私たちもまたこの生命に出会っています。学者たちの物語を思い出す中で、この出来事は様々な問いかけの中を生き、どのように私たちが応えるのかということが語られているのではないでしょうか。